◆ 推薦するもの ◆
  1. 橘 玲: 『大震災の後で人生について語るということ』(講談社).
    本書は,著者の2002年の『マネーロンダリング』以来の著作でなされて来た主張の要約です.二部構成になっていて,第一部で過去に日本に起ったことの分析が,第二部で推薦する対処法が述べられます.どの年代の方が読んでも有益な本だと思いますが,30才以下の若い人,特に結婚前の人は特に読んでおく価値のある本だと思います.
    第一部の過去の分析の概要は,次の箇所に集約されています:

      時代の病
    • 戦後の日本人の人生設計は四つの神話の上に築かれてきました.
      1. 不動産は上がり続ける.
      2. 会社はつぶれない.
      3. 円はもっとも安全な資産だ.
      4. 国家が破産することなどありえない.
      「不動産神話」「会社神話」「円神話」「国家神話」を前提としたポートフォリオは,戦後の経済成長に最適化した人生設計でした.しかしこれまで述べてきたように,いったんリスクが顕在化すれば,それは個人の人生にとってとてつもない災厄をもたらすことになります.
       ゼロ年代以降の日本が急速に閉塞感を強めていった理由のひとつは,多くのひとがこの経済的なリスクに気づきはじめたからです.しかしそれでも,“神話なき時代”の新しい人生設計を見つけ出すことができずに,耐用年数の切れた古臭い設計図にしがみつくしかありませんでした.そのことがますますリスクを高め,社会を閉塞させていったのです.[p.132]

    具体的には,「持ち家は賃貸より得だ」という定説が「(頼りになる)不動産の神話」であり,「大きな会社に就職して定年まで勤めるのが最高効率の人生だ」という定説が「(頼りになる)会社の神話」であり,「日本人なら円資産を保有するのが安心だ」という定説が「(頼りになる)円の神話」であり,「定年後は国から支給される年金で暮らせばいい」という定説が「(頼りになる)国家の神話」です.今の若い人たちには現実感がないかも知れないですが,これらは私が学生だった時代には確実に存在し,マスコミによって流布され,一部の企業人によって煽られていました.実際,これは高度成長以後からバブル崩壊以前の日本人の支配的価値観だったと思います.反時代的感性をもっていた私は,幼い頃からずっとそれに強い不信感を感じながら,相当に肩身の狭い思いをして生きて来ました(以前に「賃貸を止めて,なぜ家を買わないのか?」という問題で家族と論争をしたこともあります).ですから,この本を読んだ時,私は自分の反時代的感覚の正確無比な表現者を見つけた気になり,感激しました.
     ただし,この本が著わされた経緯は少し曲折しています.関連箇所を「終わりに」から引用します:

    •  私はこれまで「社会を変える」ことについては意識的に言及を避けてきました.天下国家を語るひとは世の中に溢れていて,それは私の役割ではないと考えていたからです.今回,自分なりの見解を述べたのは,これが日本にとって最後の機会だからです.
       この文章を書いている時点で,日本の政治は統治能力を失いつつあるようです.財政問題だけでなく,道徳や正義を含むあらゆる問題について,日本社会はいま重大な局面を迎えています.それを乗り越えられるかどうか楽観はできませんが,しかしそれでも希望はあると信じたいと思います.
       いずれにせよ,私たちは戦後的な価値観を精算して,ポスト3・11の人生を歩みはじめなくてはならないのです.[p. 223]

    第二部の対処法では,人的資本のリスクを分散する(第6章)こと,金融資本を分散する(第7章)ことを勧めています.要点は,個人単位(あるいは家族単位)で行なうべきリスク管理を,会社や国家のような大きな組織に委託して「楽をする」方法はもう止めにした方がいいということです.
     著者によると,3/11後の日本が抱える問題は次です(「はじめに」から引用):

    •  これから,戦後の日本人の人生設計を支配してきた四つの神話が崩壊してきた様を順にのべていきます.それは「不動産神話」「会社神話」「円神話」「国家神話」で,人生の経済的な側面からいえば,ポスト3・11とは「神話」を奪われた世界を生きることです.
       しかし私たちは,いまだに“神話なき時代”の人生設計を見つけることができず,朽ちかけの染みだらけの設計図にしがみついています.そしてこの役に立たない設計図から生じるリスクが,日本人の行動を規定しています.皮肉なことに,私たちはリスクを避けようとして,そのことで逆にリスクを極大化させ,それが不安の源泉になっているのです.
       3・11は,これまで大切にしてきたものが暴力的に奪われ,破壊される光景を私たちに見せつけました.
       未来は不確実で,世界は限りなく残酷です.明日は今日の延長ではなく,終わりなくつづくはずの日常はふいにうしなわれてしまいます.
       しかしそれでも私たちは,そこになんらかの希望を見つけて生きてゆかなければならないのです.[pp. 4–5]

    この,まるで他人事のような,突き放したような言い方に救いがないと感じる人はいるかも知れません.しかし,それは現実を直視せず,いつまでも共同幻想にしがみついていたいという願望,もっと端的に言えば単なる「甘え」というものではないでしょうか? (少なくとも今回の震災の被災者と,震災に続く福島原発危機に被害者はそれを身をもって知っているはずです).

  2. 辻 幸夫 (監修), 中本 敬子, 李 在鎬 (編集).『認知言語学の研究法: 内省・コーパス・実験』.ひつじ書房.
    自分が執筆を担当した本を推薦するのは気が引けるのですが,贔屓目なしに言って良い本です.その理由は二つ: (i) 特定の言語理論に肩入れすることを (ゼロにはしていないが) 極力避けている; (ii) 作例ベースの伝統的な手法とコーパス調査を利用した統計ベースの手法と実験調査を利用した行動データに基づく手法の統合を目指している.コーパス言語学に特化するのであれば,言語研究のための統計入門Analyzing Linguistic Data: A Practical Introduction to Statistics using R がお勧めですが,この種の手法では作例ベースの調査結果とコーパス事例の調査結果をどうやって両立させるか?とかコーパス事例と心理実験の結果をどうやって統合するか?という話は話題になりません.
    ただ,欲張った分だけ消化不良なところもあります.それは利用者の一人一人が自分で埋めて行くべき穴です.

  3. デイヴィッド R. ヘンダーソン [David R. Henderson] and チャールズ L. フーパー [Charles L. Hooper]: 『転ばぬ先の経済学』[訳: 髙橋由紀子].オープンナレッジ.
    これは経済学書ではなく,賢く生きるための指南書.エピソード中心で,数学が不得意な文系読者でも十分に理解し,楽しめる内容です.特に機会費用や取引費用や埋没費用(サンクコスト)や信頼関係に関する基本的な考え方を身につけるのに役立つでしょう.

  4. トム・ジークフリード: 『もっとも美しい数学: ゲーム理論』[訳: 冨永星]. 文春文庫.
    私はこれまでにかなりの数のゲーム理論の解説書や入門書を読んできましたが,本書はそのどれとも似ていません.本書の中心的なテーマはゲーム理論と物理学の統合です.特に第10章の量子ゲーム理論(quantum game theory: QGT)には圧倒されました.著者の言を借りれば「[QGT]は,ゲーム理論の歴史に加えられた予想外のひねりであって,従来の「古典的」ゲームへの理解は,量子ゲームの出現によって,ちょうど自己満足に浸っていた古典力学が,量子力学の出現で根底から揺らいだのと同じように,根底から揺らぐことになった」(p. 314).この箇所に至るまでの,古典的ゲーム理論の解説の部分も読み物として秀逸です.以下に幾つか面白いと思った箇所を引用します:

    • ノワック [Martin Nowak]によると,利他主義が生存戦略として有効なのは噂が力をもっているからだという.[...] 「言語のおかげで,協力関係は更に発展するし,逆に,協力しようとすれば,言葉がますます重要人になるともいえる...間接的互恵主義では,相手のふるまいに注目してもいいし,相手を観察してもいいし,あるいはもっと効率的に,他の人と話すだけでもいい... そのためにも,言葉が欠かせないんだ」[...]評判が生まれると,次には協力が生まれる.なぜなら評判のおかげで,人生というゲームの参加者たちは,他人の行動をより正確に予測できるからだ.[pp. 153-154]
    • 経済的なものもそうでないものも,ありとあらゆる人間行動を,経済学者の言う「合理性」や貨幣で計られる効用とは別のものとの関係を通して分析できるようになった.事実,いまでは脳は,効用を金ではなくドーパミンで測っているのではないかと考えられている.[p. 171] [...] 脳の貨幣であるドーパミンは,将来見込まれる心地よさ(あるいはなんらかの見返り)に応じて作られるらしい.モンダギュー [Read P. Montague]バーンズ [Gregory Berns]は,脳内のドーパミンを生成する神経細胞の中に,期待された見返りと実際の見返りにどれぐらいの差があるかを監視するようにプログラムされたものがあるのを明らかにした.[p. 177]
    • ザック [Paul J. Zack]は,信頼とオキシトシン [oxytocin]の関係こそが,世界中で起っている様々な経済的病理を理解する上での鍵だと考えている.オキシトシンは幸せと関係があり,人々の幸福感が高いとされている国々は,同時に人々の信頼度が高いとされている国々でもある.そして信頼度は,その国の経済がうまくいっているかどうかを計る格好の指標でもある.[p. 185]
    • ばらばらな行動傾向を持った人間が入り混じるようになったのも,おそらく自然の法典に則ってのことなのだろう.人類そのものがひとつの種として,人生というゲームで混合戦略を採用しているのだ.[p. 188]
    • [...] 進化心理学の分野で行われてきたさまざまな研究に敬意を表するにしても,そこから得られた結論には,かなり基盤が危ういものも含まれており,さらにゲーム理論を援用することによって,進化心理学が下支えされるどころか,進化心理学が破綻する理由が判明したのも事実なのだ.[p. 197] [...] 地球上のあちこちの孤立した小さな社会で最期通牒ゲーム [ultimatum game](あるいは,このゲームに手を加えたもの)を行ううちに,人間の本性が実はそれほど普遍性をもっていないことに気づいた.いわゆる先進国の大学に通う学生たちが,全人類を完璧に代表しているとはいえないことが判明したのである.[p. 199] [...] フィジー,ケニア,モンゴル,ニューギニアといった所で最期通牒ゲームを行なったところ,大学生の場合とも,経済理論の忠実に従った場合とも異なる結果が出たのである.まさに,それぞれが好き勝手にやっているとしか思えなかった.[p. 200]
    • このように,ゲーム理論に基づいてさまざまな文化を対象に調査を行なったところ,人々が,従来の経済学の教科書が前提としてきたような利己的姿勢とは異なる態度で経済ゲームに臨む文化がたくさんあることが明らかになった.しかも,人々の行動に現われる差異の原因をたどると,どうやら日常生活の各文化圏に固有の側面への行き着くらしい.[...] 申し出を断るかどうかの決断は,個人の性癖よりも,むりその社会がどのような経済活動で成り立っているかに左右されているようで,さらに具体的にいうと,平均でどれぐらいの金額が差し出されるかは,その集団と他の集団との交易の量を反映しているらしい.この [Joseph Henrichによって着手された] 研究によると,市場での経験が豊富であればあるほど,むき出しの競争をよしとせず,公正さを重んじる傾向が強まるという.[p. 201] [...] 人類学者たちは,次から次へといろいろな社会を調べるうちに,文化的な配慮が,じつにさまざまな形で利己的な行動を抑制しているケースに出会うことになった.[p. 202] [...] 最期通牒ゲームによって試されるのは,純粋な経済活動ではなく,各文化の習慣のパターンなのである.どうやらゲームのプレイヤーたちは,このゲームが自分たちの実生活をどう関係しているかを理解しようと努め,そのうえで,ふさわしいと思われる行動を起こしているらしい.[p. 204] [...] 要するに,人間は万能の心性に従っているわけではなく,人間の文化は,ゲーム理論に登場する混合戦略に似た不均質なものなのである.[p. 205]
    • 遺伝子の役割は,すべては遺伝子のなせるわざだと断定する人々が考えるほど大きくはなく,与えられた刺激にプログラム済みの反応を返す単ある「遺伝子機械」と見られることの多い生き物ですら,実は,遺伝子の多様性だけではとうてい説明できないくらい多様なふるまいを見せているのである.[...] 数年前,筆者は偶然,ハツカネズミのごく単純な反応行動を通して,この点をはっきりさせた研究に出くわした.その研究では,何年もの間,ハツカネズミの尻尾をお湯の入ったコップ(たいていは,約50度のお湯)に浸しつづけ,苦痛に対するハツカネズミの反応を観察した.むろんハツカネズミは,尻尾をお湯に入れられるのを嫌がって,お湯に入れたとたんにひゅっと尻尾を引く./ところが,どのネズミも同じ反応を見せたわけではなかった.[...] 痛みを感じやすいものとそうでもないものがいるのだ.環境面での条件はまったく同じにしてあるはずだから,この単純な行動の違いは,ハツカネズミの遺伝子の違いを反映したものだと思いたくなる.[...] さらに細かく見ていくと,尾を引くまでの時間に関係するのは遺伝子だけではないことが明らかになった.[...] 八千匹以上のネズミに関するデータを見直したモーギル [J.S. Mogil]チームは,ありとあらゆる要素[=因子]がネズミの反応スピードに影響していることに気づいた.[...] 「マウスの遺伝タイプよりも,実験者が誰かということのほうが,重要な要素[=因子]だった」モーギルと同僚は論文にそう記している.[p. 213] 実際,尻尾のテストでの反応スピードのばらつきと,それに影響したと思われる要素[=因子]すべてを,コンピュータを使ってクロスチェックしたところ,遺伝子の差で説明できるのは二十七パーセントにすぎなかった.四十二パーセントは環境の影響で説明がつき,十九パーセントは環境と遺伝子の相互作用(つまり,環境のなかに,ある血統のネズミには影響しても,他の血統のネズミには影響しないものがあったということ)で説明できた.[p. 214]

    他にも山ほど興味深い結果や知見が報告されているのですが,この辺で止めておきます.
    本書の切り口は圧倒的に独創的だと思います(が,それ故に,この本が解説しているのはゲーム理論ではないという批判もあるようです).これほど知的にワクワクする本を読んだのは久しぶりだったと言っておきましょう.

  5. 苫米地 英人: 『洗脳: スピリチュアルの妄言と精神防衛テクニック』. 三才ブックス.
    1時間もあれば読み切れるほど平易に書かれた本で,著者は「宗教的 and/or 心霊体験の本質は洗脳だ」という極めて単純な主張を,自身のオウム教徒の脱洗脳の経験に基づいて説得力のある形で提示している.扱っている主題が主題だけに,人によって評価は割れると思うが,私はこの本の内容に非常に感銘を受けた.本書は必ずしも客観的な本ではない.だが,今までに読んだ数多くの宗教論や心霊論の中で,もっとも本質に迫っていると私は思う (ただ,洗脳の条件である「ヒトが本質的に他個体にシンクロする傾向をもつ」という前提の部分は,本書だけでは証拠は不十分だろう.私も先に『SYNC: なぜ自然はシンクロしたがるのか』を読んでいなかったら,この辺のところは眉唾だと思ったかも知れない).
    私は心霊現象をまったく信じないが,今までの自分の人生の区切れ区切れで,身の回りに心霊現象を信じる人々が (自分の肉親を含めて) 何人かいたし,今もいる.そういうワケで,私は今までの人生の時間の少なくない部分を,そういう人々との (しばしば不毛な) 対話に費やして来た (それはしばしば不可避的に水カケ論になったが,そうなるのを知っていても,止めるわけには行かなかった.特に肉親相手であれば).因みに,私はややこしい家庭の事情で某宗派の僧侶になる修業をし,結果的には僧籍を取得したが,その宗派を含めて,いかなる宗教も信じていない.私の実感は「宗教は決して人を救わない.それは誰かを救うかも知れないが,その人の代わりに誰かを必ず不幸にする (別名「宗教による救いのゼロサム理論」)」である).そのような (おそらくあまり一般的ではない) 経験があるという点で,中立的な評価ができていない可能性があるのだが,この本で主張されている「心霊体験 and/or 宗教体験は洗脳に基づく幻覚である」ことは,理屈ではなく実感として納得できる.事実,著者の説が限界に近いほど単純明快でありながら,心霊経験をもった(と信じている)人たちが「報告」する事実を説明するのに十分な妥当性をもっていると私には思われるからである.
    日本という国は,どういうわけか,空気の中にオカルト成分が混ざっているではないかと疑ってしまうくらい,オカルト的な考えをもっている人が多い (そうでないと言うアナタ.血液占いや星占いを気にしたり,縁起をかついだりしている段階で,すでに十分にオカルト的ですヨ).人は誰でも自分の人生に意味を見出したいと思うものなので,唯物論者になり切るのは,確かに難しいんだろうとは思う.でも,それができるかどうかは,自分がこの世に存在していることが単なる偶然だということが納得できるか次第だと私は思う.少なくとも,事実を無視する負荷がもっとも少ない仮説がもっとも真実に近い仮説なのだとしたら,自分が存在しているのは単なる偶然の結果であって,必然性がないという仮説は,もっとも真実に近い仮説だと言うしかないでしょう.
    脱線するが,著者の苫米地英人という人,『IQ200になる習慣』を読むとわかるように猛烈に頭が良い方のようで,それが原因で好き嫌いが分れているようだが,私は別にこういう人は嫌いではない.少なくとも私には,彼の話は「自慢話」には聞こえない.彼は単に「事実」を語っているだけなんだろうし,彼の自伝的な語りが自慢話に聞こえるような人は,自分に謙虚さが足りないのではないかと私は思う.タマにだけれど,世の中には想像を絶するくらい頭の良い人というのは存在する (伝記を読む限り「悪魔の頭脳」と言われた John von Neuman も苫米地氏のような頭脳の持ち主だったんでしょう).日本人にもそういう稀有な人がいるというのは,決して悪いことじゃないと私は思う.

  6. D. コイル (Dian Coyle): ソウルフルな経済学 [室田泰弘・矢野裕子・伊藤恵子 (訳)]. インターシフト .

  7. T. ハーフォード (Tim Harford): まっとうな経済学 [遠藤真実(訳)]. ランダムハウス講談社.
    ここに挙げた二冊は姿勢こそ大きく異なりますが,共に非常に良く書かれた経済学の啓蒙書です.前者は過去20年ぐらいの経済学の進展を概観するのに良く,後者は社会学との接点を確認するのに向いています.
    D. Coyle の本を読んで私が経済学の知識に関しては浦島太郎状態だったことがわかりました.私が大学で経済学を少し勉強したのは今からもう20年以上前のことです.その当時の大学で教えられていたのは近代経済学 (通称「近経」) かマルクス主義経済学 (通称「マル経」) の二者択一だったように思います (当時はまだベルリンの壁崩壊とそれに続く東欧とソ連邦崩壊前であり,マルクス主義経済学はかなりマジメに受け止められていました).D. Coyle の本を読むと,私がもっていたそんな経済学の知識が経済学の現状にあっていないものであることがよくわかります.特に重要なのは経済学でも,過度の理想化に基づいているために「オモチャ問題」しか扱えないような「標準理論」が様々な種類の観察データ(長期変動データ,広域データ,行動データ)によって修正を迫られる様がかなり詳細に解説されています.事実のような観測データに対応できるように進展しているということです (ところで,この本で描かれている,新古典派経済学を乗り越えるためのその後の経済学の努力が,チョムスキー派生成言語学を乗り越えるためのその後の言語学の努力に重なって見えるのは,私だけでしょうか?)
    T. Harford の本は,上述の D. Coyle の本とは違って学史的な面はほとんど扱われていません.この本の狙いは,著者自身の言葉を借りれば,John Maynard-Keynes が夢見た「経済学者が歯科医になる日」が来るのを促進すること,もっとわかりやすく言うと,世の中の仕組みを理解するのに経済学の知見を役立てることです.私が理解する限りでは,著者の最終目標は経済学を社会学や心理学 (の一部) と統合することです (ただし著者自身はそういう言い方はしていません).その意味では以前に推薦した取り上げた「ヤバい経済学」 (Steven Levitt & Stephen Dubner) の類書です (因みに,この本の原題の The Undercover Economist の素直な訳は「覆面経済学者」でしょう.それを捻って「まっとうな経済学」になっているのは,「ヤバい経済学」を意識してのことでしょうが,個人的には,そのせいでこの本の題名は自律性を欠いたものになってしまっているように思えます.まあ,そういうことは本の内容からすれば完全に些細なことです.特に秀逸だと思ったのは,第7章と第8章です.

  8. L. ムロディナウ (Leonard Mlodinaw): ファインマンさん最後の授業 (メディアファクトリー).
  9. L. ムロディナウ (Leonard Mlodinaw): たまたま: 日常に潜む偶然を科学する (ダイヤモンド社).

    Leonard Mlodinaw の本はどれも面白いんですが,特に好きな二冊を推薦します.
    一冊目は,著者の CalTech でのポスドク時代の故 Dick Feynman との交流を描いた自伝で,良い師に巡り合うことが人の人生で非常に大切であることを認識させてくれる内容 (私が特に好きなのは「古臭いでたらめ」の逸話と,自分がガンで余命が長くなく養子のミッシェルの成人を見届けられないと言って Feynman が涙ぐむところ).
    二冊目は,世界の秩序形成における偶然の本質的重要性を,確率論の起源から説き起こし,数々のエピソードの交えながら非常にわかりやすく解説したものです.著者が本書で意図したのは,複雑系の科学で,複雑性に関心が集中することで注目されにくくなっている偶然性の面に光を当てることなのではないかと思います.この本からは多くのことが学べると思いますが,特に重要な (確率論的な根拠に基づいた) メッセージに思えたのは次の4つです:

    • 不運による不成功にめげるな
    • 成功/不成功を才能の有無に帰着させるな
    • (運が良いだけかも知れない) 成功者の言うことを真に受けるな
    • (不運な) 不成功者に優しくあれ

    この本を読んで,情報の完全性が保証されない限り自由競争は最適な結果を生まないということがよりよく理解できました.その結果,私は「自己責任」の意味を考え直す必要を感じました.もう一つ何となく感じたのは,L. Mlodinaw にこのような本が書けたのは,彼の理知に加えて,彼自身が最初の本で語っている Feynman と幸運な邂逅をしていることに自分らしさの起源を認めているからではないか?ということです.
    先に挙げた4つのメッセージのうちの最初の二つは Malcom Gladwell の好著『天才! 成功する人々の秘密』の主題でもあります (ただ,この本,原題は Outliers: The Story of Success なんです.なんでその訳が「天才!」になるんでしょうか?? 翻訳者は論点を誤解しているのではないでしょうか?).
    三点目に関しては,これから指導者の選び方をまちがってはイケナイということが必然的に帰結します.例えば「国を憂うのは誰だって憂うものですからね。今度の(新党を結成するメンバーも)老人たちだって。みんな老人。じゃ若い奴は何してんだ? みんな腰抜けじゃないか、言わせれば。君(記者)だって戦争の体験ないだろ。僕なんか戦争の経験、体験あるけどその人間たちはこれは本当にこのまま死ねないよ。そういう気分になってるよ」 「大体だな、大学生の入学式に親がついてくるバカな時代になっちゃった。何だ、この様は本当に。みんなで考えたらいいよ」なんて妄言を真顔で言うような人間は,絶対に指導者に選んではイケマセン.3番目の論点によれば,著名人がすぐれた人間である保証はどこにもないのです.
    この方に限って言えば,事実認識の不足に基づく責任転嫁は,いい加減にして欲しいと思います.入学式に親がついて来るような事態の原因である現行の大学入試制度を作ったのは,元はと言えば日本の産業化を闇雲に進めたあなた方ではないのですか?? (例えば『名ばかり大学生: 日本型教育制度の終焉』 (河本敏浩)を参考) 今の日本がダメなのは,若い人たちがだらしないからではなくて,(高齢化社会の副作用の一つとして) 新しい状況への適応が不足している旧世代の人間が社会の変化を妨げているから,要するに彼らが老害になっているからだと私は考えます.
    本の推薦から話が脱線して申し訳ないのですが,クソ爺の腹の立つ発言を引用したついでに最後に一つだけ政治的な話をさせて下さい (私はこういう話は好きではないですが,今回だけは黙っていられません).どんな社会でも年少者は年長者に較べて影響力で劣っています.それは社会資本,経済資本で年少者が年長者に劣るからです.社会の高齢化の進行は,最高齢者から若年層への権限委譲のサイクルの回転速度を下げました.これによって若年者の弱者化に拍車がかかり,今や日本の20台-30台の若者世代は社会的弱者グループ (minority group) に転落したか,少なくともしかけていると思えます.具体的に言えば,今の日本の若者世代は,アメリカ社会で黒人やヒスパニック系の人たちが受けている人種(間)差別に相当するものを,日本社会で世代(間)差別として受取っている可能性があります (この可能性は『若者を食い物にし続ける社会』(立木信)で指摘されています).これが本当だとすると,社会的弱者としての若い世代の利害を代弁する政治家が絶対に必要です.理由は以下の通りです: (i) 今の日本では若者世代の人口構成比がどんどん低下しているため,それに応じてこの世代の人たちの弱者化がどんどん進んでいます (これは経済学的には避けようがない現象です).顰蹙を覚悟で更に言いますが,その一方で社会的強者である高年齢者の利権の過保護化がどんどん進んでいます (彼らの選挙への影響力を考えると,これもまた当然の現象です).(ii) この状態は自己強化しますから,放っておいたら絶対に改善されません.従って,(iii) この状態に歯止めをかけるためには,そのための政策と制度が必要です.(iv) 今はまだ必要なそれらが存在しないのですから,その実現のために社会的弱者としての若い世代の利害を代弁する政治家が必要になります.
    では若い世代の利害を代弁する政治家は何を目指すべきでしょうか? 彼らが率先して実現すべきことの一つのは,年長者による人事権を独占を防ぐ制度 (あるいはインセンティブ)の導入です (公共性の高い組織であるほど,それが必要です).なぜでしょうか? 理由は至極簡単で,人事権は年長者が行使する最強力な権力だからです (資金力は人事権を実効化するためのメディアでしかありません).人事権の年少者への委譲を促進しない限り,世代間差別は緩和されません.それが緩和されるべきである理由は,年長者による人事権の寡占は,すべての規模の社会的組織で不適応をもたらすからです (実際,下の S. Coleman の著書の推薦でも取り上げた日本の科学の疲弊の真の原因の一つであり,その改善なしに日本の科学技術立国としての再生はありえないでしょう).端的に言えば,若者が反逆できない社会は,死にかけの社会なんです.日本は,今まさにそうなりつつあります.

  10. 石本 伸晃. 政策秘書という仕事: 永田町の舞台裏を覗いてみれば (平凡社)

    この本を読むまで,私は国会議員の秘書がどんな仕事をするのか知りませんでした.マスコミの (しばしば一方的で誘導的な) 報道に惑わされないように,有権者が「自衛」のために知っておくと良いことが幾つも書かれています.好著です.
    著者は自分の公設秘書の経験から,次のような提案をしています:

      私は,現在の閉塞的な政治状況の原因は,官僚 (すなわち行政) と国会のアンバランスにあると考えている.つまり,現在のシステムでは,能力のある人は行政または司法に分野に進み,[政策秘書として]国会に関わろうとする人が非常に少ないのだ.しかし,憲法上,国権の最高機関とされ,行政,裁判所と並んで三権の一翼を担う国会に優秀な人が集まらないというのは憂慮すべき事態である.
       省庁に入って官僚になるのか,裁判所に入って裁判官になるのか,はたまた議員秘書として議員の政策立案に関わるのか.[国家公務員になることを希望する]学生が進路を決定する際に,三つの選択肢が並列に挙がるような制度にしなければらなない.あるいは行政から国会へ,司法から国会へという人の流れができるようなシステムにしなければならない.
       そのためにも,公設秘書に一定の質を要求し,国会と他の[二つの]機関とのバランスを図る必要があるのだ.(p. 112)

    この意見にはまったく同感です.その意味では,どこかの寝ぼけた党の幹事長が実現に向けて働きかけを行なっているように,議員立法を禁止するなんて「改革」は,絶対に実現されて欲しくありません.この「改革」の目的は,族議員の発生の抑制だそうですが,それは明らかに「羹に懲りて膾を吹く」が如しの愚挙というか,本末転倒です.マトモに思考のできる人なら,他のインセンティブを使った対策を考えるはずです.

  11. S. コールマン (Samuel Coleman): 検証: なぜ日本の科学者は報われないのか [岩館葉子 (訳)] (文一総合出版).

    この本を読むとホントに気が滅入ります... しかし,これが自称「科学技術大国」の科学・技術政策の現実なんです.本書が書かれたのは 90年代の終わりですが,今でも何にも変わっていません.
    問題は二つあります.第一は科学と技術の政策が,科学の実態を知らない文系官僚の恣意に委ねられていること,第二は研究者コミュニティー内で年長者に権限が集中しすぎていることです.前者は中央集権性の弊害,後者は職階性の弊害です (後者は,この本の中で「家父長主義文化」や「穏健な独裁主義」と呼ばれています).

      年功序列はもっと微妙な犠牲も生む.どこの国でも科学者の加齢は,何らかの形で研究にはマイナスになる.年配の科学者は,当然の理由から,自ら開発し熟知しているアプローチやコンセプトに固執し,考え方の急激な転換を歓迎しない (Stephen and Levin 1992).日本では,科学者自身の目から見ても,科学者 (特に基礎研究者) は五〇代に入ると独裁的になり,資源を掌握するようになるという.ここでも,業績と無関係な権限と資源の分配が起こり,クレジットサイクルは問題に突き当たる.(p. 44)

    「五〇代に入ると独裁的になり」と曖昧な言い方をしていますが,因果関係はもっとハッキリしています.日本の研究者の多くは教授になった途端に独裁者に変貌するということです.これは悲しいことですが,日本では当たり前のように見受けられる光景です (実際,私の身の回りでも起こっています).
    そうなる理由は明白で,大学教授には監督者がいないからです.制度的には,大学というのは教授の一人一人が「社長」であるような夥しい数の「零細企業」の集まりです(彼や彼女が指導する学生は,その「企業」の「社員」に相当します).これらの「企業」に対して,文科省から提供される予算の獲得以外の「淘汰圧」がかからないところに根本的な問題があります.概して言うと,人文系の学問にはあまりお金はかかりませんので,強い淘汰圧はかかりません.これが意味することは単純です: 人文系では自己満足的な,第三者にとって意味のない研究が (なかなか) 消えてなくならないということです.大学の社会的責任を云々するのは大げさ過ぎると思いますが,「大学教授の恣意をうまく抑制する仕組み (e.g. 報酬制度) やインセンティブを導入しない限り,日本の大学教育に将来はない」と個人的には感じます.少なくても研究業績の少ない「研究者」が大きな顔をしているという現状が罷り通っている限り,明るい未来は見えて来ません.日本の大学の人文系の研究者で,教授になってからもちゃんとした研究をして,それで国際的な評価を受けている方はいったいどれほどいるんでしょうか?? 私の非公式の観察では,日本の研究者は大学教授になった途端に研究を止めてしまいます.確かに日本の大学は制度的に,教授が担当しなければならない「雑用」が多すぎるという不利はあるでしょうが,それを研究ができない口実にするのは怠慢です.それを怠慢だと感じない人たちは,彼らは大学教授になるため(だけ)に研究をしているということです.しかし,多数派が何を言うかに関係なく,本来の研究とはそういうものじゃありません.年齢に関係なく,共益のために自分にできる最大限の努力をしないなら,その人は本物の研究者とは言えません.研究において「私利私欲」を追求するんて,もっての他です (ここで言う私利私欲の追求は,学派の商品化による大衆への普及も含みます).
    この本の存在は理系白書: この国を静かに支える人たち (講談社文庫)で知りました.この本,並びに続編の「理系」という生き方: 理系白書2 (講談社文庫)も一読をお勧めできる佳作です.

  12. T. グランディン (Grandin, Temple). 「自閉症の才能開発: 自閉症と天才を繋ぐ環」 (訳: カニングハム公子). 学習研究社.

    Sigmund Freud の提案した精神分析は医学の療法体系としては (Albert Ellis が幾つかの著作で指摘しているように) 何の根拠もないメチャクチャなものでしたが,彼は自然科学の方法論の分野では貴重な洞察を残しました.それは「正常」の正しい理解は「異常」の正しい理解を通じてしか得られないという逆理です.この本は,ヒトの認知能力に関して,Freud の逆理の妥当性を実証する新しい実例になっています.
    本書は,著者の T. Grandin が自閉症者としての自分の経験と先行研究の綿密な調査に基づいて提唱する自閉症の特徴づけを提唱しています.それを一言で言うなら,自閉症とは,(おそらく遺伝性で) 器質性の,症状の程度に差のある,感覚・知覚障害の総称であるということです.本書を読めばわかると思いますが,この主張は非常に説得力のある説です.この本を読んで,私の自閉症観は大きく変わりました.少なくとも自閉症研究の権威の一人 Uta Friss が (Simon Baron-Cohen の影響を受けて) の説く「自閉症は「心の理論」を欠く症状だ」という規定は (カナー症候群のみに当てはまる) 過度の単純化であり,カナー症候群以外に高機能自閉症 (e.g., アスペルガー症候群) も含む「自閉症スペクトラム」という幅広い症例群の一般的な特徴づけからはほど遠いという事実 (本書では p. 185で指摘されている) を知ったのは,重要でした.ただ,高機能自閉症患者が「心の理論」を欠いているわけではないにせよ,情緒に障害があることは著者の次の記述からもわかります:

      私の行動は「知」に導かれているので,今でも複雑な感情生活を営んでいる人を理解したり,その人とかかわったりするのは難しい.[p. 115]
      [...] 感情のすべてのひだを味わっているのではないことを知ったのは,この二,三年のことである.私の情緒は普通の人と違うのではないかと感じた最初の糸口は,高校時代にルーム・メイトが科学の教師にぞっこんまいっているのを見たときだった.彼女の気持ちがどうであれ,私は人に対してそんな風に感じることはなかった.ほんとに何年もたってから,人は社交の場で,気持ちをくみあっているのだということに気づいた.私はそうした社交的かかわりを理論的に学ばねばならなかった.そして経験を重ねるごとに社交が上手になった.その後も今に至るまで,私を理解してれた教師や保護者に導かれてきた.自閉症者はジャングルのような社交場で生き延びるために,手引きする人が絶対に必要である.[p. 121]

    その一方で,著者はさりげなく,次のような告発もしています:

      成長するにつれて私にとって大きな支援になった人々は,創造的で因習にとらわれないタイプの人だった.精神科医や心理学者は少しも助けにはならなかった.彼らは私の心理分析や心の暗黒面を発見することに忙殺されていた.ある精神科医は,もし私の「精神的傷害」を発見できれば私を治せると信じていた.高校時代の心理カウンセラーは,私がなぜ扉のような物に固執するのか理解したり,それを学習の刺激に用いようとはしないで,むしろやめさせたがっていた.[p. 127]

    本書では随所で,健常者と非健常者の心の働きの違いを見せつける,ハっとするような記述が出てきます.例えば著者は次のように言います:

      私は自分の才能ですばらしい仕事を完成させたときは,深い満足感を覚えるが,爆発するような喜びとはどんなものなのか知らない.人が美しい夕焼けに死ぬほど感動しているとき,私は自分には何かが足りないと感じる.頭では夕焼けの美しさは分かるのだが,心を動かされることはないのだ.[p. 113]

    ただ救いがないわけではなく,著者は次のように続けます:

      喜びで興奮するような感情に近いものは,設計上の問題を解いたときに感じる喜びであろうか.そんなとき私は踊り出したくなる.野の中で駆け回る子牛のように.[p. 113]

    これからも自閉症者の内面はキレイな理論化ができるほど単純でないことが伺えます.
    自閉症の誤解を解くのに役に立つ様々な記述の中で私が特に興味深いと思ったのは,著者の T. Grandin のような高機能自閉症者の記憶様式と思考様式との係わりです.Grandin は自分が言語記憶に依存しておらず,A. Luria の (今日の術語で言うと hyperthymesiaの) 症例 S として知られる Solomon Shereshevsky に言及しながら,次のように言います:

      情報咀嚼の基本的方法である,視覚による思考のもう一つのサインは,自閉症者が特技とするジグソー・パズル,土地カンのよさ,一瞥しただけで多くを記憶できるなどの能力に現われる.私自身の思考パターンはA・R・ルリア著書「The Miind of A Mnemonist」に詳述されている事例に類似している.この本には驚くほど豊富な記憶力を発揮した一人の新聞記者が紹介されている.私のように,この男性も見聞きしたすべてを視覚イメージとして記憶したのである.[p. 27]

    S. Shereshevky が自閉症だったかどうかはわかりません (Luria の記述を見る限り,彼はコミュニケーション能力が高く,その可能性は高くはないと思います) が,T. Grandin のような高機能自閉症者の記憶と S. Shereshevsky のような超常記憶症患者の記憶との類似性は意外です.ただ,自閉症者が感覚障害から派生する認知障害だとすると,次のような説明の可能性が考えられるように思います: 自閉症は,感覚刺激を制御,統合するために必要な脳の活動抑制システムに機能不全 (要するに脳内ホメオスタシス異常) が生じることで起こる.その反面で,特定部位の活動抑制の機能不全は,健常者には不可能な詳細な想起を非健常者に可能にする
    内容の面では文句なしに素晴らしい本ですが,訳には少し難ががあります.訳文の質は日本語として見る限り決して悪くない--- というより,むしろ読みやすくて良い方なのですが--- 専門用語や固有名の訳がかなりメチャクチャなのです.例えば researcher(s)の訳は「リサーチャー(研究者)」で,Michael Gazaniga の訳は「(ダートマス医科大学の) マイクル・ガザニ」(p. 60) で,theory of mind の訳は「心の論理的作用」(p. 55) だったり「理論的心理」(p. 185) だったり,Richard Feynman の訳は「リチャード・フェインマン」(p. 234) です.これらを誤訳と言うのは酷でしょうが,翻訳者の調査不足の結果であるのは間違いなく,翻訳としての完成度は低いと言わざるを得ません.文章自体は読みやすく,内容がすぐれて啓蒙的である分だけ,これらの不備は惜しまれます.

  13. 竹内 薫 (著),嵯峨野 功一(構成). 『理系バカと文系バカ』(PHP新書)

    私のホームページには言語学の研究者(の卵)の方々ばかりでなく,言語処理の研究者(の卵)の方々もときどき訪問しているという話を耳にしました.そういう方を意識して本書を紹介します.
    この本は少なくとも表面的には (i) 「文系バカ」と「理系バカ」の両極端を対比させ,(ii) そのいずれにも偏しない「文武両道」を体現するように心がけようと提言している本なのですが,裏の意図では,「文系バカ」に較べると実態があまり知られていない「理系バカ」の実態を世に知らしめるために書かれたのではないかと想像します (実際,私には,本書は物理の博士でもある著者の竹内さんの理系研究家の内部告発に近いと読めました.バランスを取るために文系バカとの対比もなされていますが,それはあくまで「オマケ」ではないでしょうか?). 例えば竹内さんは「理系バカ」に次のような苦言を呈します:

      理系人間は,自分の中に「絶対的基準」があり,その基準に合っていないものに対して過剰反応を示す場合が多い.その「自分の中の基準」は絶対に正しくて,それに反するものは叩かなくちゃいけない.ある意味,理系人間の正義なのだ.[p. 84]

    更に

      根拠のない優越感
       これまで多くの「理系バカ」と接してきて,収入も少なく,ヘアスタイルや洋服にもなりふり構わず,異性にもモテないのに,なぜか自分が「理系」であるというだけで根拠のない優越感に浸っている人を大勢見てきた.ある意味,「理系バカ」の最も嫌な部分かも知れない.[...] 研究を取材に来た新聞記者に向かって,「あなた,文系でしょう.私の研究,分かるの?」と,いきなり上から目線で自らの(偏った)「頭の良さ」を見せつける科学者も後を絶たない.
       とにかく,自分が「理系バカ」であることの自覚はなく,文系全体を蔑んでいる連中は多い.残念ながら,こういった輩は,昔から「専門バカ」として世間からはバカにされてきたものの,いつの時代にも存在するし,教えて直るものでもない.[pp. 94-95]

    私は言語処理研究者の一部に同種の違和感をもつ機会が稀ではないので,ここでの竹内さんの苦言に強く共感するのですが,相手を「専門バカ」と呼んで接触を断つだけでは解決しない,根本的に別の問題があることは指摘しておきたいと思います.このような関与者全員にとって不幸な事態が起っている根本的原因は,本人の性格や世界観の歪みではなく,それらを放置するばかりでなく助長さえしている家庭と学校の教育,更には社会から個人へのの期待だという点です.この点を認識し,対処しない限り,本質的な点はいつまでも改善されないでしょう.更にもう一点つけ加えるなら,文系が(理系バカでない) マトモな理系研究者からも「文系の研究の大半は何をやっているのかわからない」と言われるのは,誤解に基づく批判ではなく,「冤罪」は成立しないと私思います.
    社会性の関係で,本書で紹介されている次の逸話の意味づけには別の筋書きもありえます:

      [日本で]「科学コミュニケーター」が育たない理由はもう一つある.ある若い男性の研究者から「研究」と「サイエンスライター」の両方をやりたいとの相談があった.彼は本をたくさん読む人で文章もうまい.アメリカには大学で研究を続けながら,外からの依頼があれば「サイエンスライター」も勤めるという,二足のわらじ履いている人は大勢いるが,日本では珍しい.そこで私は彼にはその先駆けとして頑張ってもらいたいと思い,仕事を紹介した.
       しかし,彼が「サイエンスライター」として活動を始めて少し経った頃,彼の所属する研究チームの教授から「貴様は何をやっているんだ.人生を棒に振る気か!」と,ものすごいカミナリが落ちたそうだ.「今やっている研究以外のことには,わき目をふるな,何もするな」というのだ.この教授は典型的な「理系バカ」だ.この若い研究者が,これから先も研究一筋で過ごし,ノーベル賞を受賞したら,その教授は偉大なる恩師ということなる.可能性はなくもないが確率は低いだろう.[p. 161]

    この教授が理系バカであるという点には異論はありませんが,その理由を個人の性格や態度の問題に帰着するのは危険だと私は感じます.その根拠となる幾つかの非公式な観察を示します.まず,(i) 理系では文系に較べて (理由は不明ですが) 指導的な立場の人間(例えば研究チームの長)が暴君化する率が高く,(ii) 理系の研究室の運営は民主的というより,絶対権力が君臨しやすい体質 (いわゆる「体育会系」) であり,(iii) 理系では.文系よりも露骨に上位者への恭順が報酬に結びつく傾向がある (これはあまり知られていないことだと思うので,指摘に値すると思います.そうなる理由は,理系研究では動かせる予算の規模が文系より明らかに大きいからです).こういう観察をした上で私が思うのは,この教授が問題の態度を取ったのは,単に彼の「理系バカ」さ加減故というより,そういう理系社会の構造の歪みも影響しているということです.そうだとすると,これはもう少し大きな問題の一例なのかも知れません.具体的には,日本の高度経済成長を支えた(が,今となっては時代遅れであることが明らかな) 役割モデル,すなわち「モーレツ社員」の役割を教授が学生に期待しているが故にであり,研究社会の成員の社会情勢に対する進化が,実社会の成員の進化に較べて10年ぐらい遅いという事実の帰結の一つだということではないでしょうか?
    上のような批判を展開しながらも,竹内さんは明らかに理系人間である自分に誇りをもっています.そうでないとすれば,なぜ「第3章: 日本では理系人間が育ちにくいのか?」や「第4章: 「理系センス」のある人はどこが違うのか?」のような章があるのでしょう? 更に,竹内さんは「メディアを握っているのは文系ばかりでいいのか?」と問題提起をしており (pp. 121-124),同じ危機感をもつ者としては,その趣旨には完全に同意します.
    著者が主張する「文武融合センス」の必要性に関して,個人的には強く共感しますが,それを実現するのは簡単なことではないとも思います.本書や類書への典型的な反応に,「前提である<ヒトは理系と文系にわけられる>という命題が誤りなので,本書の主張は無意味」という反応があると思いますけれど,そういう人は文系界と理系界の一方だけで安住していて,両界の境界面辺りを行き来した経験がないのだと思います.(竹内さんと同じく) 二つの世界の行き来している人間の一人として意見を言わせて頂くと,「文理の区別はすべきでない」と建前を言うだけではどうにもならないほど両界は異なっているのです.文系人間と理系人間が抱いている世界観は基本的に異質です (文系と理系が連続的だというのは事実と思いますが,連続はなだらかな繋がりをは保障しません).C.P. Snow が The Two Culturesで行なった古典的な観察は,時と場所を越え,今でも真なのです.私の観察では,文系人間は自然法則から独立した思念だけで世の中が動いていると考えがちであり,理系人間は思念から独立した自然法則だけで世の中が動いていると考えがちです.理系的人間と文系的人間は単なる文化 (cultures) の違いではなく,ヒトの思考様式の極相であり,もしかしたら部族 (tribes) ぐらい違ったものかも知れないという可能性は指摘しておきたいと思います.

    UPDATE (2009/11/14) 四大新聞の記事 (毎日新聞の記事, 読売新聞の記事, 産経新聞の記事, 朝日新聞の記事) が報じているように,2009/11/13の「事業仕分け」作業で世界最速のスーパーコンピュータの開発事業が予算計上見送りとなりました.私のこの結果の是非については何も言いません (正直に言って,それが良いことなのか悪いことなのか,あまりに判断が難しいからです).しかし,この結論は,竹内さんがこの本で批判し,危惧していた次の三つのことの複合的な帰結であることはまちがいありません:

    1. 理系バカに代表される人間は文系の人間に対して (あまり実質のない) 優越感をもっている.
    2. 理系バカに代表される人間はコミュニケーション能力が不足している.
    3. 日本の行政システムと言論形成システムでの文系人間の割合が多すぎる (ここで言う言論形成システムとは,政策形成システムと常識形成システムの統合です.政策形成システムは政治家に支配され,常識形成システムは新聞やテレビなどの大手メディア関係者に支配され,行政システムは官僚に支配されている).

    これら三つが組み合わされると,負のフィードバックループに陥って,多くの人間にとって不幸な結果になる可能性が高いのです: (i) 理系人は (知らず知らずのうちに) 文系人から反感を買っている (それは理系人は無意識のうちに 文系人を見下していることが稀ではないため).しかも,(ii) それは理系人のコミュニケーション能力不足によって助長される傾向にある.ただ,(iii) 理系人の言論形成システムへの影響力が限定的である (理系人は産業の分野を支配しているだけ).日本の社会大部分が技術産業の成長に強く依存している期間は,この問題は表面化しませんでした (少なくとも行政システムは産業界と友好的な関係をもつ必要がありました.産業と技術の進歩は理系人間の活躍に負うところが大きいには明白です),しかし,これは本来,かなり不安定な状態であり,今の日本を襲っているような異常事態下では容易に理系バッシングに化ける可能性があります.しかも,その際,コミュニケーション能力の低さが理由になって,理系人の失地回復が難しくなる可能性があります

    三点目について,情報を補っておきます.意外に知られていないことなのですが,日本の官僚のほとんどは東大出身の文系人で,理系研究の実態がわかっている官僚は一握りです.これは「さらば財務省!」(髙橋洋一) などを読めばわかります.なお,この本の著者は郵政民営化の黒子役の一人です.郵政民営化の評価は賛否両論に分れていますが,その意義を正しく評価するには,その仕立て人の小泉純一郎元首相の「建前と本音」を知っておく必要があるでしょう.それは「自民党政治の終わり」(野中尚人) の第二章で詳しく解説されているように,いわゆる「小泉改革」が推進した市場の自由化と国営事業の民営化というのは,小泉氏の政治目標である経世会の排除を達成するための「手段」であり,それ自体が「目的」ではなかった可能性が大きいということです (このことを知っておくと,これは髙橋氏の「小さな政府」擁護論も別の視点で読み込めるようになります).なお,野中氏が言及している自民党内の権力闘争の詳細を知るには,「永田政治の興亡」(G. カーチス) を併読すると良いでしょう.少なくとも野中氏の本とG. カーチス氏の本を合わせて読むと,2009/09/16の日本の政権交代の背景がよくわかります.

    UPDATE (2009/11/15) たまたま「なぜ「科学」はウソをつくのか: 環境・エネルギー問題からDNA鑑定まで」(祥伝社)にも目を通し,その第二章「科学の闇」で竹内氏の経歴に関して悲痛な事実を知りました.それから「理系バカのと文系バカ」の執筆の真意も理解できたように思います.それは,文系読者に向けた「一部の理系バカとの不幸な出会いのせいで,科学を嫌いにならないで」というメッセージだと理解します.
    竹内さんが巻添えになった疑似科学に関して,私も以前から感じていたことをハっと思い出しました.現代日本で疑似科学や新興宗教にハマる人の多さは異常だと思います.私の非公式の観察では,日本では今でも100人中の10人は何らかの疑似科学か新興宗教の非現実的な説明を信じています (もちろん,以前はもっと多かったと思います).ここではその証拠として次のことを問題にしましょう.知りあいに「占いって信じるか?」と聞けば,返ってくる答えは10中8,9「ノー」です.しかし,10中8, 9 人が信じていないハズの占い関係書が常に科学書よりも高い売り上げ残しているというのは,いったいどういうことなんでしょう? (損得で考えるなら,信じていない占い本を買うのは,宝くじを買うよりバカらしいムダのハズです).日本人が合理的な行動をしているという仮定の下では,消費データは日本人の多くは占い書を購入し,かつ読むことに何らかの価値を認めているということが示されています (占い本にコレクションの価値があるとは思えないので,買ったからには読むのでしょう).では,占い本の価値とは何でしょうか? それは端的に言えば,占い本が提供してくれる自分にとって有益な情報,もっとあり体に言うと「安心」を買っているということです (人が本を購入し,読む理由は,それが自分にとって有益な情報を伝えるからです.経済学を信頼する限り,それ以下でもそれ以上でもないでしょう).これは狭義の信仰の現われではないかも知れませんが,明らかに宗教的な行動です.別の言い方をすると,日本人の多くが「占いを信じていない」と公言するの単なる「建前」で,実際には売り上げが表わしているだけ,それは信じられているということです.そうなっている理由は,私にはわかりません (この問題は,以前に紹介した「人,この信じやすきもの」の第三部でも考察されていたことですが,根本的な理由は不明です.私が目にした中で,その説明にもっとも近いと思われるのは,D. リンデン [David J. Linden]「つぎはぎだらけの脳と心」(インターシフト)の第八章「脳と宗教」でしょうか).しかも,理由が明らかになったところで,それに対処する方法がすぐに見つかるわけではありません.竹内さんの懸念に関連させて言うならば,疑似科学の蔓延の理由は,マスコミの影響で本当の科学と疑似科学の境界が曖昧にされていることにも求められると思います.だからこそ.竹内さんの言葉を借りるなら「メディアを支配しているのが文系ばかりでよいのか?」なのです.


  14. スーザン・シャラー (Suzan Schaller). 『言葉のない世界に生きた男』 [訳: 中村妙子]. 晶文社. [著者の姓の読みは「シェイラー」の方が適切な気がしますが...]

    生まれつきの聴覚障害で「イルデフォンソ (Ildefonso)」という名の聴覚障害者が27歳の時に,著者の S. Schaller に会って手話 (Ameslan) を獲得する記録です.言語獲得論的には驚愕に等しい知見が幾つも述べられていますが,この本の著者が提起している問題が言語学で問題になったことはあるんでしょうか?? 私が単に知識不足で知らないだけであるのを祈ります.
    この本を読んで私が特に重要だと思ったのは次の点です:

    • Ildefonso は (Schaller の必死の努力によって) 世の中にある多くのモノに特定の名前があるということを理解できるようになる前は,言語学者が言う意味での「コトバ」を操れなかったし,その存在にも気づいていない (ようだった).つまり彼は,27歳まで他人とコトバと使ってコミュニケーションをしたことがなかった (が,それでも生存は可能だった).
    • 彼は Schaller からコトバの存在を知る前にから,数を概念をもっていた(ようだ) [これは「ヒトに数学的思考が可能なのはヒトがコトバをもっているからだ」という「思考の言語」学派の主張の反証になる]
    • Ildefonso は Schaller から Ameslan を学ぶ以前の記憶をもっており,Ameslan を獲得すると,その記憶を Ameslan で表現できるようになった.

    これらは,(i) ヒトとしての「思考」には言語学が問題にする意味でのコトバは不可欠ではない,(ii) 語彙と文法の獲得に臨界期というものはないことを示唆していると思います.流暢姓に関する臨界期は確かに存在すると思いますが,この知見に照らすと,言語の臨界期現象というのは音韻的なものでしかないのでは?と疑ってみるのは意味のないことではないでしょう.
    この本の存在は峯松信明先生に教えてもらいました (峯松先生にはこの他にも Jill Priceという超常記憶障害者の自伝『忘れられない脳: 記憶の檻に閉じ込められた私』の存在も教えてもらいました.彼のような独創的な研究をしていて,博識で偏見のない方と交流があるのは,ありがたいことです).峯松先生はこの本を私に紹介する際,「本当に言語[獲得]の臨界期というのはあるのか?」と問いかけていました.白状しますと,この本を読む前には「え,何を今さら?」と思いましたが,読後には私は自分の無知を恥じ入るしかありませんでした.本書の13章「遠い夢」は言語学者の認識不足を扱っています (その中には何人かの言語獲得研究者との不毛な交流も回想されています).

       専門家との面接は,はかばかしい成果を生まなかった.わたしがイルデフォンソのことを話しだすと必ず,「そのことについて,あなたは論文を書いていますか?」とか,「あなたは言語学を専攻しているんですか?」といった質問が返ってきた.ある女性の研究者はわたしの質問を聞くなり,「あなた,いったいどういう経歴なの?」と反問した.またある大学院生は「そういう問題に関心をもっている人間は近ごろじゃ,ほとんどいないんですよ.十九世紀には人気がありましたがね」と言って,大学で言語学を専攻したと思うなら別なテーマを取り上げるほうがいいと助言してくれた.
       諸方に問い合わせるうちにわたしは,二人の言語学者が言語をもっていなかった大人の聾者の言語習得の過程について論文を書いていることを知った.そのどちらとも会うことができなかったが,彼らの一人と共同研究を進めている大学院生に会う機会があった.彼は,言葉をもたぬ大人に会ったのは「一生に一度あるかないかの貴重な体験だ」と興奮していた.しかし私は,それがそれほど珍しいケースでないということを知っていた.わたし自身,一つ教室で三人もそうした人々に会っていたのだから.こういうことから考えても,どうやら見当違いの方向に情報を求めてきたようだとわたしはきづいた.[p. 200]

    最後の一文で言語学者連中は著者の S. Schaller から「見当違いの方向」というまことに恥ずべきな評価を下されています.著者自身は意識していないのでしょうが,これは痛烈な言語学への批判です.このような残念な事態が起った原因は明白です: それは言語(獲得)研究の同業者の中で Noam Avram Chomsky 氏の説いた言語の先天性仮説の影響があまりに強いことの帰結です.言語習得の研究者は,彼に倣って「言語獲得の論理的問題」とかバロック的な文言を弄ぶことで自己満足を得るのではなく,自分の研究分野の基礎を,始めの始めから見直さないとダメだと思います.

  15. L. スモーリン [Lee Smolin] (2007). 迷走する物理学: ストリング理論の栄光と挫折,新たなる道を求めて [訳: 松浦俊輔] (ランダムハウス講談社).

    チョムスキー派の生成言語学を(超)ひも理論 ((super) string theory) に譬える人がいます.それはそれでよいんだけれど,その本家本元の(超)ひも理論がいかに物理学の理論として失格であるかを,その悪影響に触れつつ明解に論じているのが本書です.
    非常に面白く,研究が何であるかを考える上でためになることがたくさん書かれている本です (例えば17章の「科学とは何か」の後半に書かれているのは,私が今までに目にした中でもっとも成熟した科学論です) が,それなり高度な現代物理の (特に量子力学の) 知識が必要です.物理に明るくない読者は,いきなり本書に挑戦するより,まず 素粒子物理学をつくった人びと (上)素粒子物理学をつくった人びと (下) を読んで基礎知識を得ることをお勧めします (が,かなり重厚なスモーリンの本を読む気がなくても,この本は素粒子物理の発展を支えた研究者たちへのインタビューに基づいて概説する,非常に面白い本なので,独立したお勧め本です).
    本書を読めばわかるように,生成言語学と(超)ひも理論は本当に驚くほど良く似ています--- 事実を正しく予測することよりも(数学的)美しさ (いわゆる「エレガンス」),を尊重し,現実から遊離した空虚な理論になるところに始まり,参加する研究者のエリート意識と研究者のコミュニティーを支配する排他的な社会体制に至るまで,非常に多くの点で共通性が認められます.この意味で,生成言語学を(超)ひも理論に譬えるのはなかなかの炯眼と言えるかも知れないとは思いますが,それが含意することは,生成言語学は((超)ひも理論と同じく)非現実的で空虚な理論だということです.参考までに,著者が(超)ひも理論家の特徴として挙げているもの (pp. 367-368) を,生成言語学者の特徴と比較して見て下さい:

    • ここまでの話から,ストリング理論[=(超)ひも理論]学会の変わった面が七つ,明らかになっている.
      1. とてつもない自信があり,その資格があるという感覚,専門家のエリート共同体に属しているという感覚につながる.
      2. 異様なほど一枚板の共同体で,証拠で動かされるものであろうとなかろうと,合意があるという感覚が強く,未解決の問題に対する見方も異様なほど一様である.こうした見方は,小数の指導者の考えが,この分野の視点,戦略,方向性を定めている,上下関係の存在と関係するらしい.
      3. 場合によっては,集団への帰属意識がある.信仰や政治信条への帰属意識と似ている.
      4. 仲間と他の専門家とを区別する感覚が強い.
      5. 同じ集団に加わっていない専門家の説,意見,成果については,無視・無関心で,同じ学会の他の仲間とだけ話す方に傾く.
      6. 証拠を楽観的に解釈する傾向.結果について,誇張した,あるいは不適切な発言を信じ,理論がまちがっている可能性を無視する傾向.これは証明を調べていなくても (見てさえいなくても),「広く信じられている」から正しいと信じる傾向とも対になる.
      7. 研究方針にどれぐらいリスクがあるかきちんと認識していない.
      もちろん,ストリング理論[=(超)ひも理論]家が皆こんなふうに表わせるわけではないが,ストリング理論学会内外から見て,この共同体の大半の成員に,こうした姿勢の一部またはすべてがあてはまることを認めない人は少ないだろう.

    ただし,認知言語学者も安心してはいられません.ここに挙げられている特徴の幾つかは,認知言語学者の一派にも妥当します (例えば G. Lakoff や G. Fauconnier と彼らの取り巻き連中には,簡単に同様の傾向を認めることができます.その意味では,アメリカの理論言語学者は多かれ少なかれ誰もが,そういう素地をもっているのかも知れません).これに続けて,著者が(超)ひも理論家が集団思考 (groupthink) に陥っていると論じている箇所から引用しましょう (pp.370-371):

    • 次に引くのは,オレゴン州立大学のコミュニケーション論を取り上げるウェブサイトにあるものから抜粋した,集団思考の説明である.
      1. 自分たちの強さや道徳的立場の高さを過大評価する.
      2. 集団が下す判断を集団として合理化する.
      3. 外集団やその指導者を鬼のように描く,あるいは紋切り型で描く.
      4. 個人個人が自分や周囲を,集団の一枚板の外面が維持されるように監視するような,画一性の風土がある.
      5. 集団の指導者を,自分たちのものでも他の集団のものでも,情報を上げないことで守ると自任する構成員がいる.
      ストリング理論[=(超)ひも理論]の風土に私があると認めた性格と,これが一対一であ合致するわけではないが,心配になるくらいには近い.

    私もチョムスキー派生成言語学者やレイコフ派やフォコニエ派の認知言語学者も集団思考に陥っていないか,かなり心配になります
    生成言語学にせよ,認知言語学にせよ,指導的立場にある研究者の影響が大きすぎる点が根本的に問題なのだと思います.(生成言語学に限って言えば,「老害」のN. チョムスキー氏がお隠れ遊ばされたら,生成言語学という分野はもっと実り豊かな研究分野になるのではないでしょうか? 私が見る限り,研究者のポテンシャルは明らかに生成言語学の方が認知言語学より上ですので).因みに,分野の創始者が分野の発展を妨げるという皮肉は,先に紹介した『素粒子物理学をつくった人びと(上,下)』でも幾つか実例が上がっています.物理学ですらこういうことが起こるんですから,言語学で起こらないハズがありません.関連する話題が19章に出てきます:

       もちろん,テニュアを得るには相当に理由がある.限られた範囲とはいえ,独創的で独立した科学者が解雇されて,最新の流行の思想に従う若手に入れ替えられることから守ってくれる.しかしテニュアには,重大な代償もある.年長の人々には職が安定しすぎ,権限が与えられすぎ,説明責任もなさすぎる.逆に創造性の頂点にあり,リスクも大きな年月にある若い人の方には,職の安定がなさすぎ,権限がなさすぎ,説明責任がありすぎる.[p. 441]

    日本にはテニュア制度はないですが,それが本質でないのは明らかです.ここでの問題は日本の年功序列の慣習の悪弊と同根です.また,根本的な原因は競争的資本主義ではなく,既得権益をもつ階層の過保護 (つまり保守主義の行き過ぎ) だと考えられます (この点に関しては,若者を食い物にし続ける社会 (立木信) なども参照されるとよいでしょう).

  16. 掛谷英紀 (2007). 学者のウソ (ソフトバンククリエイティブ).

    この本を推薦することは (日本の文系研究界の現状を考えると) かなり危険かも知れません.しかし敢えてそうします.特に,これから研究者になろうとしいる研究者の卵に一読を勧めます.公共心の不足している研究者が陥りがちな自己欺瞞の落とし穴が数多く考察されています.
    この本の「読みかた」には二通りあります.第一の読みかたは,読者が学者以外の人である場合の読み方で,それはこの本を学者の言動を必要以上に真に受けないようにするための予防薬として読むことです.率直な言い方をすると,学者ほど「詭弁」に長けている者はいません.それは学者以外の人間には知られていません.それをハッキリ知らしめたという意味で,この本にはすでに十分な価値があります. 第二の読み方は,読者が学者である場合の読み方で,自分は学者としてどうあるべきか,あるいはどうありたいかを見直すためのきっかけとして読むことです.私の以下の意見は後者の読みに基づいてなされています.従って,第一の読み方をした読者とは関心が異なります.
    私はこの本に書かれていることのすべてに同意するわけではありません (特に「第2章本来の学問」の内容の一部は素朴すぎると感じます).しかし,このような本が世に問われたことはすばらしいことだと思います.伝統的に (a) 政治の世界でも学問の世界でも反知性主義がはびこる (政治的に重要な決定は,日本では理性ではなく,必要以上に情緒に基づいて下される傾向が大ですし,研究の学問的価値は勢力争いに明け暮れ,大局を見失っている有力研究者の「見識」で決まります.日本では「大家」に認められない研究は事実上存在しないに等しい) 今の日本では,このような告発的な本を出すことは,非常に勇気が要ることです.それが著者の研究者としての地位を危なくする可能性もあるからです.
    この本の後半(第3章以降)では「何が正しい研究か」は公正で客観的な基準で決められるものではなく,(著者自身はどうもハッキリそうとは言っていないのですが) 研究者の価値観によって決まるものである点を意識しながら議論と考察が進みます.第3章の主題は,「研究の質の低下は,研究者の倫理観が低下が原因となって起こる」ということです.これは正鵠を得た認識ですが,一つ問題があります.研究者の集団と言えども「朱に交われば赤くなるか」は常に作用する原理ですから,正しい研究倫理をもつ者が多数派でない限り,研究者の倫理は低下する一方です (更に悪いことに悪化の方向への正のフィードバックがかかります).この点を意識して現状を認識すると,「正直者 (ばかり) がバカを見る」今の社会では,倫理低下の傾向には歯止めがかからないように思います (これは研究界に限ったことではありません.経済界でもそうです.楽をして株で儲けようとする人たちが多数派になったら,産業は破滅します).その方向を修正するには,「正直者 (こそ) が得をする」ようなインセンティブを作り出すしかないように私には思えますが,この本の著者の提案している言論責任保証の仕組みがそれを実現できるかどうかは,未知数です.案としては決して「絵に描いた餅」ではないと思いますが,実効性をもたせるための仕組みの実現と,実効性の継続的評価をどう実現するかという問題が残ります.
    私がつけ加えたいと思う視点は,若手研究者の育成制度の見直しです.具体的に言えば「渇すれども盗泉の水を飲まず」タイプの研究者の分野への残留を促進する仕組みがあれば,研究倫理の低下傾向は改善される可能性が高いと思います.しかし,具体案はありません (苦).研究界から自発的にそういう動きが出てくるとは考えにくいので,特定の研究分野への外部からの「投資」に頼るしかないんでしょうか...
    最後にもう一点,個人的な意見を--- 研究の倫理を維持する条件は様々ですが,その一つはマスメディアの煽動によって生じる人気を拒絶することだと思います.文系理系の区別に関係なく,一般に自分の研究分野の人気が出ると喜ぶ人が多いようですが,私はこの理由をまったく怪しく思います.マスメディアで好意的に取り上げられることがきっかけになって荒廃が始まった分野の数は,決して少なくはありません.マスメディアの(バイアスのかかった)報道の影響で,特定の研究分野に,後継者/理解者育成能力の限界を超えた新奇加入志願者が急増するということは時々起こります.それを無条件に受入れると,時として悲惨な結果が生じます.最悪のシナリオでは,分野内で言説の最低限の真理性を維持できなくなります (そうなったら,その分野はもうお終いです).これに対して,じわじわと人気が出る場合にはあまり悪い影響はないようです.そういう事例を見る限り,私は「研究は,急に(いわれのない)人気が出た時こそ一番危ない」と思いますが,それは私がひねくれ者だからでしょうか?

  17. Haydn: Complete String Quartets (by Angeles String Quartet) (Philips)
    The Complete Haydn Piano Sonatas (by Jenö Jandó) (Naxos) (iTunes Store でも入手可能だが,Protect があり複製が面倒).
    全集ではありませんが,次の選集もお勧めできます:

    私はほとんど音楽関係の推薦はしません (絵画関係はもっとしませんが).それは音楽や美術というのは,趣味性が高く,公正な議論の成り立ちにくい領域だからです.しかし,今回は敢えてその禁を破ってみましました.
    「音楽でもっとも才能のある作曲家は誰?」と聞かれたら,多くの人が答えに挙げるのは,まず Wolfgang Amadeus Mozart でしょう.それに後続するのは Johann Sebasitan Bach か Ludwig van Beethoven ぐらいなものでしょう.ピアノが好きな人のなかにはか Frederic Chopin と答える人もいるかも知れません.少なくとも「もっとも才能ある音楽家」として Franz Joseph Haydn を挙げる人は,まずいないでしょう--- 少なくとも日本では.しかし,ここで紹介する二つの全集を聞いて私は敢えてそう主張します: F.J. Haydn はおそらく西洋音楽史上もっとも才能のある作曲家であり,おそらく史上最高のメロディーメーカー (旋律作家)です.どう考えても Mozart 以上です (誤解のないように: 私は Mozart が天才でないと言っているわけではないのです.Mozart も天才だが,Haydnの方が上だと言っているだけです).
    それなのになぜ Haydn はそういう扱いを受けていないのか?? 私は音楽学者ではないので憶測しか言えませんが,もっともありそうなのは,Haydn の曲で有名な曲の多くが実は彼の「傑作」ではないということです.Haydn がもっともよく知られているのは,104番まである交響曲群です.しかし,これらは Haydn の傑作とは言い難いものが多いと思います.少なくとも,ここで推薦した弦楽四重奏や鍵盤ソナタ群が,Haydnの交響曲群よりもずっと音楽的に素晴らしいことは確実です.Haydn の天才は複雑な編成をもった音楽ではなく,簡潔な編成の音楽で発揮されるように思います.例外的に有名な数曲を除いて,弦楽四重奏曲と鍵盤ソナタ群の大半はまったくと言っていいほど知られていないというのは,音楽愛好家にとっても不幸なことです.Haydnの本領である室内楽が日本では交響曲に較べて愛好度が低いという事情が,日本でのHaydnの知名度の低さの原因になっているのは確実だと思います (概して言うと,日本では交響曲のクラシック音楽全体に対する代表性が過剰に評価されている気がします).
    しかし,そういう私も Haydnの音楽の素晴らしさをはっきりと認識したのは最近のことです.交響曲しか聴いたことがなかった頃は,私も彼の音楽に関してはっきりした印象をもっていませんでした.私が「Haydnってなかなかいいな」と思うようになったのは,G. Gould による演奏 で後期のピアノソナタ6曲を聞いてからです (しかし,この演奏集にはかなり「毒」があるので,Haydnの音楽の本来の姿は伝えていません.それは後で挙げる他の演奏を比較すれば明らかです).その後,Ivo Pogorelich のピアノ演奏Emerson String Quartet の弦楽四重奏選集 でHaydnの音楽の別の面を知りました.こういう演奏に出会っていなかったら私も Haydnの音楽の素晴らしさを発見することはできなかったでしょう (そういう意味でも日本の音楽言説はあまりに偏っています.Mozart と Beethoven が不当に持ち上げられている感じがします).
    クラシックの世界では,曲が有名になるかは,曲の音楽自体の良し悪しというより,演奏者の好みに依存する度合いが強いようです.演奏家は,他の条件が同じであれば,(i) 自分にとって親しみのある曲か (ii) 聴衆が聴いて喜ぶ曲を演奏したがります.この二条件を同時に満足する曲 ---要するに「有名な曲」--- は,他の曲より多く演奏されることになり,その結果,更に有名になります.これを裏返しに言うと,(i) か (ii) のいずれかの条件を満足しない曲はますます演奏されにくくなる傾向があるということです (これは色々な作曲家のある分野の全集を聞き通すと実感できることです.例えば W.A. Mozart のピアノ協奏曲や交響曲,L. van Beethoven の交響曲は,一部の「有名」な曲だけが繰返し演奏される傾向が目立ちます [証拠1] が,好んでは演奏されない曲 (e.g., Mozart の Piano Concerto Nos.18, 19 や Beethoven の Symphony No.8) が「月並み」な曲かというと,まったくそんなことはありません)--- 演奏における需要と供給のフィードバックループで割を食ってきた作曲家の一人が F.J. Haydn じゃないかと私は思います.
    しかし,幸いなことに,この「悪循環」の影響はだんだん弱くなってきています,(i) 70年代以来,演奏レパートリーを広げることに野心的な演奏家が増え,それと呼応して (ii) 音楽業界が多様性を追求し始めたことが,いわゆる「マイナー」な曲に「聴くだけ派」の音楽愛好家が触れる機会が増えていることの原因として挙げられるでしょう.事実,その効果として,今は以前に較べると圧倒的に多彩な音楽を楽しめるようになって来ています.これは良いことです (例えば今の目で見れば,80年代の演奏カタログに載っていた演奏の種類が驚くほど偏っていたことにびっくりするでしょう).
    今は明らかにクラシック愛好家にとっては「良い時代」です.以前は「よい演奏」と「よい音楽」はかなり苦労して探さないと見つけられませんでした.大学生の頃,私は毎週末,新しいCDを探しに京都のJeugiaなどの店に通っていました.私の小遣いはすべて本台かCD台に化けて行きました.割合としては,本:CD=1:2ぐらいだったでしょうか.今はそんなことをしないでも,インターネットの検索で必要が情報がほぼすべて手に入ります.ただし,あまりに情報が多いので,逆に要らない情報を無視するためのメタ知識が必要になって来ていますが.

  18. T. ギロビッチ (Thomas Gilovich): 人間,この信じやすきもの: 迷信・誤信はどうして生まれるのか (守 一雄・守 秀子訳). 新曜社.

    人文系が研究者が陥りがちであるばかりでなく,自然科学系の研究者もしばしば嵌まりこむのことのある「過剰般化」が起こる理由を,例えば「信念に合致する情報の過大評価」のようなヒトの認識/認知の仕組みに求め,それを認知心理学の立場から追求した本です.読むと「目から鱗」の内容で一杯です.大学教育の基本図書にしてもよいのではないでしょうか?? いや,これを単なる教養書に留めておくのは,限りなく社会損失に近いです.この本の内容を中学生,高校性にもわかるようにうまくまとめて中学・高校教育に取り入れたら,(新興) 宗教に奔る人たちの数は確実に減ると思います.
    本書は「確証バイアス」自体を扱った本ではないのですが,確証バイアスの正体を知り,それを回避する処方箋を得るのに最良の解説書だと思います.私が自分の幾つかのエッセイ (e.g., 文書1, 文書2) で指摘した「例外性の錯覚」や「説明への誘惑」は,この本でより適切な証拠に基づいて詳しく説明されています.言語学に限らず,すべての分野の研究者,いや,研究者だけでなく「正しく」生きたいと思っているあらゆる人が,この本を読んで多くのことを得ることができると思います.
    因みに,Th. Gilovich は共著で こんな本 も書いているようです.こちらはまだ読んではいませんが,行動経済学は言語学 (特に語用論やコミュニケーション論) との関連が深いですので,関心のある方は一読して損はないでしょう (ただ Amazon の評によると訳がイマイチのようです).

  19. D.ザルツブルグ (D. Saltzburg). 統計学を拓いた異才たち: 経験則から科学へ発展した一世紀 (竹内惠行・熊谷悦生 訳). 日本経済新聞社.

    統計学史という分野の本ですが,それ以上の価値があると思います.この本を読むまで,統計学にはなんかすっきりしない,モヤモヤした感じがつき纏っていて,ちゃんとわかった気がしませんでした.しかし,この本を読んで頭がスッキリしました.統計学というのは,実はかなり異質なモデルのごちゃまぜだったんです(笑).
    この本から学んだことは色々ありますが,特に収穫だったのは,統計学が生物学から発展した領域であるという事実です.生物学が自然科学の中では,物理や化学より後進的な分野だと見なされがちですが,その理由を生物の理解には統計学が不可欠だったというところに求めることもできます (この本を読む限り,統計学と統計物理学の関連は意外と強くないようです).

  20. ジェームズ・マッガウ (James L. McGaugh) [だが,より正しい発音はおそらく「マ(ッ)ゴー」では?]. 記憶と情動の脳科学: 忘れにくい記憶の作られかた. 大石高生・久保田競 (監訳). 講談社ブルーバックス (B1514).

    ヒトと他の種の動物の記憶に関して,現時点で何がわかっていて,何がわかっていないかをわかりやすく伝えてくれる良書 (日本人の書いた本に必ず出てくる数式やゴチャゴチャした設計図は一切でてこない.全般的に言うと,日本人の書いた記憶の入門書や研究書は,枝葉末節に属する技術的詳細が多すぎ (苦)).例えば,i) 短期記憶と長期記憶は独立した仕組みで,長期記憶は短期記憶が固定化されたものではない,ii) 短期記憶と長期記憶の区別はどの動物にもあるという説が説得力ある形で述べられていました.
    邦訳の題には「脳科学」とついているが,必ずしも脳科学中心に話が進むわけでない.どちらかと言うと(認知)心理学寄り.最後から2番目 (だが,実質的な最終章の) 6章で「忘れられないことの不幸」という示唆的な話も出てくる他,次の非常に重要な指摘を見つけた (私は記憶研究者にこの可能性に言及している人がいないか,あれこれの資料を探して,ようやく見つけた):

      サヴァンの脳を理解することで,人がどのように学習して,記憶するのかについて重要な洞察が得られるでしょう.ひとつの可能性は,ある部分の脳部位や処理機構が未発達であるであることが,非凡な才能の表現に必要とされる他の部位を過剰に発達させたというものです.
       もうひとつ,もっと興味深い可能性は,私たちはみなこのような [膨大な記憶力という] 非凡な才能を持っているが,正常な脳発達が才能の表現を妨げるというものです.脳の多くのシステムは常に多くの種類の情報を入力し,保持し,用いるために相互作用をしています.このような相互作用が,抑制されなければ驚異的な記憶力と創造性を生み出すことができるシステムを抑制してしまっている可能性があります.(p.264)

    想起の基本的な仕組みが抑制の解除だとすると,従来の想起のモデルは根本的に見直さなければならない.そのようなモデルの理論的基礎づけは十分になされていないが,最近になって「月元 敬 (2007). 抑制に基づく記憶検索理論の構成」のような革新的な研究も出てきたのは素晴らしいことだと思う.脳科学が全盛な今日だが,記憶や心のような複雑な現象は,いきなり物質化学の術語で還元的に理解しようとしても無理で,その前にアルゴリズムの術語で仕組みを理解することが必要だろう.そうでなければ統一的な記憶「観」や心「観」は得られないように私には思える.

  21. 中妻照雄. 入門ベイズ統計学. 朝倉書店.

    日本語で読めるベイズ統計学の入門書は,初心者向けのものがありません (数学者は概して言うと,数学のわからない人に概念の説明をするのが下手だからです.彼らは式がわからない人に式で説明しようとします (笑)).この本で採用されているのは斬新なほど非数学的なアプローチです.その点で,これは異例な本ですし,ベイズ統計の「哲学」を実例を通じて伝える好書だと思います.第二章「ベイズ的視点から世界を見る」に主観性に関する興味深い分析があります.これを読んで理解できたら,統計に関する見方だけでなく,実証という行為に関する理解も変わるかも知れません.
    難点を言えば,第二章のベイズの定理の導入が天下りで,知識のない人には不親切だと言う点です (ベイズの定理が条件つき確率の定義から簡単に導けることを知っていないと,p. 34 で式 (2.6) が出てきた途端に煙に巻かれてしまう読者もいるのではないでしょうか? ちょっともったいない気がします).

  22. シンディー・エンジェル [エンゲル] (Cindy Engel). 動物たちの自然健康法: 野生の知恵に学ぶ. 紀伊国屋書店.

    読んだらきっと世界観が変わる本です.

  23. ちりとちん完全版DVD-BOX I: 苦あれば落語あり

    高校卒業以来,私は自分が住んでいる家には (必要ないんで) テレビを置いていません (だから私は基本的に世の中のことは思い切り疎いです (笑)).しかし,この番組は偶然に職場の食堂で昼の再放送を何度か見て,すっかりハマりました.仕事のある月曜から金曜は欠かさず見ていたのですが,仕事のない土曜日の放送は見ることができず,欲求不満でしが,この完全版でようやくそれが解消されました (笑).
    ホンマにオモシロおかしく,かつ中身があって,感動させるお話です (脚本,演出共に一級品と思います).どういうわけか視聴率は奮わなかったらしいですが,そんなことには関係なく名作だと思います.早く残りも見たいです (笑)
    Box II, III も見ました.Box II は文句ナシにすばらしい.Box III もそれなりにオモシロイのですが,草若師匠が亡くなってからの展開がイマイチな気がします.特に最後の一ヶ月の展開にはかなり無理があります (主人公が小浜を出て行く時の重要なセリフ「おかあちゃんみたいになりたくないの!!」のひっくり返しの展開はわかったのですが).もっと多くの人が納得の行くような終わらせ方をするには,もう後一週か二週分の話が必要だった気がします.

  24. グロータース, W.A. (Willem A. Grootaers). 誤訳: 翻訳文化論 (柴田武訳, 五月書房)

    これは翻訳(術)の本というより,言語学の本です.この本にはフレーム意味論という用語は出て来ません (し,そもそも著者はフレーム意味論のこと自体,知らなかったと思います) が,この本に書かれていることは要するに「コトバの意味の理解にはフレーム意味論が不可欠だ」ということ,更に言うなら,非構成的意味をもつ慣用句や成句の表現がいかにコトバの理解で重要かということです.翻訳はそれが露骨に現われる現場であるということです.
    1960年代の日本の通産省の電気試験所を訪問し,日英機械翻訳システムを見た時の感想が次のように述べられています.「機械翻訳の研究には電子工学における高度な専門家を必要とするが,言語学における高度な専門家も必要とすることには[機械翻訳のプロジェクトの責任者たちは]気づいていないらしい。たとえば、この研究所には、英語を母語とする外人はひとりもいなかった。それで、英語の複雑な構造がつかめると思っているのだろうか」.この苦言がなされたのは1960年代半ばですが,実状は今でも実質的に変わっていません (苦).今も昔も機械翻訳がやっていることは,元構造 (source language) の語句 x を先言語 (target language) で等価な語句 y に置換することです.今では元言語の構造解析はそれなりの精度で行われるようになって来ましたが,まだ処理の産物の先言語のデキの良さを,元言語との対応の良さとは独立に評価し,出力を調節するというやり方は取られていません.
    内容的にはすばらしい本なのですが,ただ,これを読むと著者の言う「二重言語者」以外の人間に翻訳ができるんだろうか?と自信を失ってしまう可能性があるのが難点と言えば難点でしょうか.

  25. ウィリアム・パウンドストーン (William Poundstone). 囚人のジレンマ: フォン・ノイマンとゲームの理論 (松浦俊輔ほか(訳), 青土社)

    ゲーム理論 (Theory of Game) を多くの実例を使って具体的に解説している書ですけれど,「囚人のジレンマ」の名で知られる有名なジレンマの他にも「行き詰まりゲーム」「弱虫(チキン)ゲーム」「シカ狩りゲーム」の三つ,合わせて四つの「社会のジレンマ」状況の解説書という面があります.数式は(幾つかの不等式を除いては)出てこない(従って定理の証明はない)けれど内容はそれなりに高度です.フォン・ノイマンの伝記という一面もあります.そういう面でも面白いです.
    以前に紹介した『ヤバい経済学』で扱われている多くの問題は (原著者は明言していなかったように記憶していますが) ゲーム理論と深い係わりがあります.インセンティブの効果的な利用というのは利得関数を自分の有利なように変化させることだからです.

  26. 大村 平 (2002 [1969]). 統計のはなし (改訂版). 日科技連.

    コーパス基盤の言語分析には統計上の知識 (有効な標本の取り出し,結果の有意義性の評価=検定など) が不可欠です.これが何かわからないためにコーパスを利用した研究をしたくても,二の足を踏んでいる方々は少なくないと思います.この本は統計学の基本的な考え方を,具体的な例を使って,これ以上ないというくらい懇切丁寧に説明してくれます.どんなに苦手な人でも,この本を読めば統計の基本が理解できることは保証します (この本の内容を理解するには中学校レベルの数学で十分で,高校レベルの数学は不要です).アマゾンの書評からもわかるように,これ以上はないと言ってもいいくらいわかりやすい統計の解説書です.必要なのはおそらく,書いてあることが理解できるまで,自分の頭を使ってちゃんと考えるという根気だけです (笑)

  27. 大村 平 (2006 [1980]). 統計解析のはなし (改訂版). 日科技連.

    この本は上の『統計のはなし』の続編です.内容は少し高度になっていますが,それでも決して難しいというほどのものではありません.この本には簡単な多変量解析の解説も載っていますが,内容的に少し物足りないと思われるので,次の『多変量解析のはなし』も読んだ方が良いでしょう.

  28. 大村 平 (2006 [1985]). 多変量解析のはなし (改訂版). 日科技連.

    アマゾンの書評からもわかるように,これ以上にわかりやすいものはないと言っていいくらい平易で明快な多変量解析の解説書です.
    コーパス基盤の言語分析にはクラスター分析 (Cluster Analysis), 因子分析 (Factor Analysis),主成分分析 (Principal Component Analysis) などの,いわゆる多変量解析 (Multivariate Analysis) が重要な役割を演じます.これが何かわからないためにコーパスを利用した研究をしたくても,二の足を踏んでいる方々は少なくないと思います.ですが,実を言うと,多変量解析は,いわゆる統計解析に較べると理解も応用も簡単なのです.この本は多変量解析の基本的な考え方を具体的な例を使って,これ以上ないというくらい懇切丁寧に説明してくれます.上の二冊と同様,苦手な人でも理解できることは保証します (この本の内容を理解するには中学校レベルの数学で十分で,高校レベルの数学は不要です).

  29. スティーブン・D・レヴィット & スティーブン・J・ダブナー (望月衛訳): 『ヤバい経済学』 (東洋経済新報社)

    これは幾つかの興味深い事例分析と共に インセンティブ (incentives) の効果に関して論じた本です.

      インセンティブは現代の日常の礎である.そして,インセンティブを理解することが---おうおうにして壊してしまうことにもなるけれど---凶悪犯罪からスポーツの八百長,出会い系サイトまで,どんな問題もほとんど解決できる鍵になる.[p.16]

    インセンティブ(誘因)とは聞き慣れない語ですが,概念的には非常にありふれたものです.例えば,オマケ,(ご)褒美,甘い言葉,罰,脅し,などは全部インセンティブです(従って,インセンティブは別に携帯電話の販売戦略を表すための用語ではありません).いわゆる「飴と鞭」を使い分けるということは,人を操作するのに「ある行動を取らせるにようする「正」のインセンティブ(飴)と,ある行動を取らせないようにする「負」のインセンティブ(鞭)をうまく使い分ける」ということです.因みに,インセンティブという考えは A. Tversky と D. Kahneman が創始した行動経済学と呼ばれる(どちらかというと非正当派)経済学の知見とも共有可能な考え方です.
    この本には幾つか非常に重要なメッセージがあります.その一つは彼らもハッキリ述べているように「現実をちゃんと(客観的データを取って)観察し,通念に欺かれたり,感情論に流されたりしないように気をつけよう」でしょうが,もう一つの目立たないメッセージは「情報格差に注意せよ」でしょう(これは第二章の「ク・クラックス・クランと不動産屋さん,どこがおんなじ?」のテーマです).情報というものが(情報理論の言う意味の情報ではなく)価値の源としての情報になるのは,それが人が何かをする/しないを決めるインセンティブとして働くからです.

      「専門家」は--犯罪学者から不動産屋まで--自分の情報優位性を自分のために利用する.しかし彼らを彼らの土俵で打ち負かせることがある.とくにインターネットのおかげで彼らの情報優位性はどんどん小さくなっている.そこが他にも増して強く現れているのが棺桶と生命保険料の値下がりだ.[p. 17]

    インセンティブの成立基盤を端的に言うと(相対的に)情報をもつ者が(相対的に)情報をもたない者へ行使する(権)力,別名情報優位性です(これこそ若手研究者が学会発表を前にして不安になる理由です).多くの人が自分よりも知識のある人(=相対的有識者)の「助言」に従います.これは多くの場合,自分の無知を補う「賢い」行いなのですが,暗黒面があります: それは相対的有識者が相対的無識者に対して,行動を左右する(権)力をもつということです.この本では突っこんだ分析はなされていませんが,専門家と非専門家を区別し,選ばれた人々と衆愚を区別する情報優位性こそが権力構造を成立させる根本原因であるという点は(カレル・ファン・ウォルフェレン著「日本/権力構造の謎(上)」「日本/権力構造の謎(下)」などを読めば)明らかです(このことから,情報格差を小さくしているインターネットは普及と共に徐々に世界の権力構造を変えているという予測が得られますし,これは正しい予測だと思われます.棺桶の値段と生命保険料の値下がりはその一端にすぎないとも言えるでしょう).この意味では,この本を読んで,もっと多くの人が「知らないうちに他人に支配されないための抗インセンティブ論=情報管理論」のようなものが現代人の必須科目だということに気づくといいのですが...例えば,私たちには有識者から「助言をもらう権利」があるのと同時に誰からの助言(や時には命令)であろうと,それが自分にとって最終的に有益でないという判断に基づいて,「助言(や時には命令)を聞かない権利」というものもあるハズなのです.
    この本が教えてくれる「世の中の裏側」には「あー,やっぱり」と「え,ウソ?」の二つ反応を呼ぶものが混じっています.前者には例えば,統計データを信じる限り「相撲では組織的に八百長が行われている」と信じないわけには行かないという結論が該当し, 後者には特に社会通念(例えば「(アメリカでの)政治家の当選率は選挙にかかる金とは無関係」とか「銃より危険なものはない(従って,プールなんかよりずっと危険である)」であるという事実が該当するでしょう. 後者の反応を呼ぶ話題に関しては,「社会通念」が往々にして誤りであること明らかにしているわけです.
    ただ,彼らが導いた結論には,アメリカ社会に特殊な現象で日本には当てはまらないと考えるべきものもあります.銃とプールの危険度の比較に関しては,そもそも日本では同様に対比が成立しませんし,もう一つ,統計データに基づく限り,アメリカの政治体制では当選率が選挙にかかるお金に比例しないばかりか,相関さえしないということは,正直に言って,私には信じられませんでした.この後,少し調べものをして「アメリカと日本の選挙はどうもまったく別物らしい」という仮説を抱くに至りました(この仮説はその後,カレル・ファン・ウォルフェレン著「日本/権力構造の謎(上)」「日本/権力構造の謎(下)」を読んで確認されつつあります.
    この本が扱っている内容は本当に経済学なのか?---これは経済学を専門にしない人々にとっては実質的にどうでも良いことなんですが,これはけっこう難しいかも.この本の中にも,レヴィットの仕事に対して,ある学会で正当派の経済学者から「君のやっていることは経済学じゃなくて社会学じゃないのか?」という反応があり,それに対してその場に居合わせた正当派の社会学者は首を横に振ったという逸話が紹介されています.本の題は「経済学」と銘打っていますが,実際は「応用経済学」とでも言った方が正しいんでしょうね.少なくとも,この本が経済学だと読んでいるものと巷で経済学と呼ばれているものには,応用数学と数学の違いぐらいはあるでしょう.
    個人的な見解を述べると,この本の話題は単に社会学というより政治学だと思います(インセンティブは政治学問題だと私は思いますんで). 実際,この本の著者たちが次の形で言っているのは倫理と社会の実態の違いで,後者の実態は権力構造です.

      道徳は世の中がどうあってほしいかを表すと言えるだろう---一方,経済学は世の中が実際にはどうなっているかを表している.[pp.15-16]

    まあ,このように領域横断的な研究が経済学なのか社会学なのか政治学なのかを排他的に区別すること自体,無意味だと思いますが.
    この本,内容も良いですが,それ以上に非常に話上手に書かれています.例えば pp.117--118に書かれている逸話には腹を抱えて笑いました.話の展開のうまさはベストセラー作家の第二著者ダブナーの功績だそうです.

  30. D. Emonds & J. Edinow (二木真理訳): 『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』 (筑摩書房)

    アマゾンでの評価は良くないようですけど,読み物としてはオモシロイですよ.読み始めたら止まらなくて,結局,徹夜しました(笑)
    昔の話になりますが,高校生の頃,私はL.ウィットゲンシュタインの哲学に傾倒していました.(ちゃんと理解できたかどうかはともかく)『論理哲学論考』も読みました.「言葉の限界が世界の限界」という彼の標語は非常に気に入っていました.その後,K.ポランニーの「暗黙知」のことを知って,ガラッと考えが変りましたが(苦)
    K.ポッパーは浪人中に興味を惹かれてちょっと読み,大学に入ってから科学論を論じるサークルに入ったので,I.ラカトシュや P.ファイヤアーベントと読み比べました.ですが,ウィットゲンシュタインとポパーにこういう繋がりがあったとはまったく知らなかった.
    この本の記述はポパーやウィットゲンシュタインの「思想」の解説としてはモノ足りないでしょうし,おそらく不正確な内容も少なくないでしょう.ですが,彼らがなんであのような「風変わり」な思想を形成したのか?という点に関しては,巷に溢れている『○○入門』よりずっと突っこんだ追及がなされているように思います.ポパーはADHD症候群の,ウィットゲンシュタインはアスペルガー症候群の人だと思わせる逸話がたくさん出てきます.この本の著者はおそらく「普通の意味での<論争>はなかった.問題の<論争>は(単なる)哲学上の論争というより,個性の衝突 (personality crash) だった」ということが言いたいんでしょうね,きっと.
    こういうベタベタな決着が嫌いな方々は(特に学者さんたちには)多いとは思いますが,ヒトの行動なんて,そんなに「奥の深い」ものだとは限りませんよ.それがどんなに「偉大」な思想家の行動でも---少なくとも私には,ウィットゲンシュタインに関してそういう感じの明白な<脱神格化>の意図が読み取れました.

  31. 小野尚之: 『生成語彙意味論』 (くろしお出版)
    この本は,(認知)言語学者が 生成辞書理論 (Generative Lexicon Theory: GLT) に入門するのにもってこいの本です.今までGLTにはちゃんとした入門書がなかったため(岩波の『言語の科学4』に奈良先端大の松本裕治先生による簡単な紹介があったのみです),その正しい理解が妨げられていた観がありますが,この本の出版によりその空隙は埋められたと言えるでしょう.この本を読めば,GLTでは意味調節 (semantic accommodation) という名称こそ用いられていませんが,GLTがやろうとしていることは意味調節の理論的実装の一つだということが理解できるでしょう.定式化を論理式で行なうか,ダイアグラムで行なうかは,完全に表面的なことです.例えば京大のY梨先生が何と言おうと,その差は実質的な差ではありません.
    本書の最大の特色は,多くの文系読者にとって嬉しいことに,(i) GLTの原典や多くの紹介論文とは異なり,解説には論理式がほとんど使われおらず, (ii) GLTのエッセンスのみを平易な日本語による解説,並びに語彙概念構造 (Lexical-Conceptual Structure: LCS) への翻訳で紹介しているという点にあります.そのため,本書は認知言語学系の研究者にとっては語彙概念構造論 (Lexical-Conceptual Structure Theory: LCST) の些か異端的解説書としての役割ももつかも知れません.ただし,著者が提示するのは非常に柔軟な LCST です.その意味では,本書には日本で主流になっている影山流の LCST の一種の「毒消し」的機能も期待できるかも知れません(笑)
    とはいえ,最近は影山先生自身,GLT と LCST を統合する努力もなさっているようです (今年の春に東大で開かれた日本語のLCS辞書構築のフォーラムでそういう発表を聞きました).ただ,GLT と LCST の統合には理論的には二つの異なる方向性があります: (i) LCS を所与のものだとして,従来の LCS に欠けている情報 (特にクォリア構造の情報) を取り入れ,LCS の不足部分を補充するか,それとは逆に (ii) LCS が GLT の貧困なバージョン (impoverished version) だと見なし,両者の差分を埋めるかは別のことですし,おおらく理論的に異なる帰結に繋がるでしょう.私なら後者の選びますが,影山先生は (当然のことですが) 前者を選んでいます.小野先生に関して言うと,どちらの立場を取っているのか,ちょっと微妙なところがあります.
    理論な評価とは別の次元で,この本を読んで私が特に共感するのは,筆者の柔軟な理論的姿勢と,理論バイアスの少ない事実観察力です.こういう良質の研究書は認知系/生成系の別に関係なく,もっと広く読まれ,理解されるべきだと考えます.このような良質な本の出版は,(少なくとも意味論の分野での) 生成系/認知系の「垣根」の取っ払いの始まりになるような気がします.

  32. 金出武雄: 『素人のように考え,玄人として実践する: 問題解決のメタ技術』 (PHP 研究所)
    これは企業人向けに売られている本みたいですが,内容はむしろ,研究者向けの研究指南書だと考えて差し支えないでしょう.一言で言うと,スバラシイ本です.ちょっと引用しましょう:

      発想は,単純,素直,自由,簡単でなければならない.そんな,素直で自由な発想を邪魔するものの一番は何か.それはなまじっかな知識---知っていると思う心---である.
      知識があると思うと,物知り顔に「いや,それは難しい」「そんな風には考えないものだ」という.私などのように,大学の教授と呼ばれる職業の人間はつい,「その考えはね,君,何年に誰それがやろうとしたけれどうまくゆかなかったんだよ」と知識を披露したくなるものである.実際,専門家というのは「こういう時にはこうすればうまくいくはずだ」「こういう時にはそうしてはならない」というパターンを習得した人である.その分野を知っているだけに発想を生む視野が狭くなってまう.
       もともと発想は「こうあって欲しい」「こんな具合になっているのではないか」という希望や想像から生まれる.希望や想像は[特別なことを]知らなくてもできる.とらわれがないとかえって斬新な発想を生みだす可能性がある.「できるのだ」という積極的態度につながる.
       しかし,発想を実行に移すのは知識が要る,習熟された技(わざ)が要る.考えがよくても,下手につくったものはうまくは動かない.やはり,餅は餅屋なのだ.
       [...] 私はこの現象は,研究開発においてその秘訣をついていると確信し,「素人発想,玄人実行」という標語にまとめ,学生や仲間に言っている.この本の題名はそこからきたものである.(pp. 7-9)

    Mr. Robot の金出教授ほどの人がこう言うのだから,私が<悪質な研究(者)は良質な研究(者)を駆逐する>で強調したことはそんなに的外れではなかったんでしょう(笑)
    このほかにも,例えば次のような示唆は貴重です:

      アメリカの大学では,学生も教授も,自分のできかけのアイデアを人に楽しそうに話しかけるのが好きな人が多い.そのために研究所の廊下のそこここに黒板や椅子があって,そこで話し込む姿が見られる.日本でも広めたい習慣だと思う.(p. 98)
       独創,創造と言うと,それまで誰一人として考えもつかなかったすばらしいアイデアを初めて思いつくことだと考えがちだが,実はそういうことはめったにない.実際,人が成功したアイデアに対して,「俺はもっと前に考えていたんだ」とか言う人が必ずいる.それは必ずしも負け惜しみだけではない.[...]確かに事実そうなのだ.科学史や技術史をみても誰かが以前に考えたのだが,当人には実行する力がなかったとか,最後まで目標を追い求めず,追及の仕方が中途半端で十分実を結ばなかったとか,あるいは,これもよくあるのだが,その時点で使える技術や道具が不十分であったということがきわめて多い.(p. 116)
       何もないところから,突然考えるということは,普通はできない.これだけ多くの人がいるのだ.自分がいいと思うことは,他人も考えている場合が多い.似たようなことを考える人は必ずいるものである.まったく誰も考えなかったアイデアは普通ろくなことはない. [...] というわけで,「ほとんどの創造は,真似に付加価値をつけたものである」. (p. 117)

    次の点は私が以前<研究が進まないとき,どうするか>というエッセイで指摘したことと同じです.

      私の経験からすると,日本の学生はアメリカの学生と比較して,本来の問題解決の能力において明らかに劣っている.
       本の中にある答えをみつけ出すのが問題解決ではない. [...] 現実にある問題を自分の頭で考えて「何とかする」という訓練をしなければ,いくら専門的な知識があっても,思考力,判断力,そして挑戦する意欲という知的体力は生まれない. (p. 153)

    次は,専門バカにならないための処方箋です:

      一度身についた思考の枠組みから考え方を飛躍させるのは難しいものである. [...] 身についた思考の枠組みが,自分のアプローチと異なる新しい考え方や知識を吸収する邪魔をしてしまうのだ.
       これを防ぐには日ごろから未知のものに触れておくことだ.未知のものに触れる最もよい方法は,自分の専門外の人の話を聞き,彼らと話をすることである. (p. 181)
      自分が足を踏み入れたことのないジャンルで活躍している人と話すことは,興味深く,刺激的である.いわば知的対決だ.
       「あ,そうか.そういうことをやらなければいけないのか」「こんなことを考えている人がいるのか」「なんだ,そんな風に考えるのか」などと,感心し,啓発される.まさに[アイ・オープニング(開眼)」である.今までに考えが及ばなかったことを言われると,目が開かされるのである.
       どんな分野の人であれ活躍している人は,その分野についての問題をアブストラクト(抽象化)して考えられる人である.分野が違っても抽象化された思考法は共通している.お互いに了解できる者が多い.
       この抽象化というのは,いわゆる抽象的に話すことではない.特定の例,出来事の一段上の共通の概念をつかむこと----ツボを押えること---である.ツボをいかに押えるかは,どの分野でも,研究でも,話し方でも,教育でも,同じである.(p. 184)

    自分の経験に照らしてみても,いわゆる「理系」の人が「文系」の人に対して様々な側面で有利なのは,この意味での「抽象化」ができる人が多いからだと私は思います.

      「ドクター・カナデの話を聞くと,何となくできるような気がしてくる」と言われることがある.もし,その秘訣があるとすれば,私は自分が信じることだけを話すように心がけている.すると,大げさに言わなくとも,いやむしろ控え目に言った方が説得力がある.自分が信じないようなことを,他人が信じることはありえないのだ.
       研究者は基本的に楽天家でなくてはならない.本来,研究開発とはそういうものなのだ.研究者は,わからないことを追及しようという人間である.それが,「これは本来わからないことじゃないか」などと,弱気ではダメなのだ.「できそうではないが,やってみよう」というのでなければ,できるわけがない.「できるに違いない」と思っていても,できないことのほうが多いのだから. (p. 217)

    次は判断の客観性の神話について,

      アメリカと日本のシステムの両方に住んでみて,一番の違いとして感じるのは,日本には「自分が決定者である」という立場になりたがらない人が多いということだ.なぜ,「客観的ということに」したがるか言うと,決めたがる人が少ないからである.(p. 315)

    話はズレますが,これは日本人が,本来特定の個人が取る必要のない失敗の責任が個人の責任であるかように錯覚する人が多いからだと私は思います.日本人は事を始めるか前から,それが失敗したときの責任の所在を考えている.失敗を見越すことは有意義ですが,失敗に対してどれほど寛容であるかに関して,日米では非常に大きな違いがあります.日本人は子供の頃から「他人に迷惑をかけてはいけない」「他人に迷惑をかけてはいけない.失敗は絶対にあってはいけない」という先入観を植え付けられます.でも,考えてみれば,人が生きるということは,必ず誰かに迷惑をかけることなのでは? 利害の不一致というものがある以上,それは絶対に避けられないことです.この現実とどうやって折り合いをつけるかには「哲学」は必要なわけです.この際,「誰もが幸せになる社会などというのは原理的にありえない」という事実を肯定するか,平等の「理念」に基づいて現実を否定し,建前を押し通すかが分かれ道です.アメリカと日本とでは選ばれた第一原理が逆ということなんでしょう.
    このほかにも有益な観察,意見がふんだんに入っています.マトモな研究者をめざす人であれば,読んで絶対に損はしない本です.

  33. 溝口 理一朗: 『オントロジー工学』 (オーム社).
    文系読者にもわかるように,非常に平易に書かれたオントロジー (ontologies) の概説書です.この本は工学,人工知能にありがちな形式的な記述が押えられており,理解力のある人ならば,文系でもついてゆける内容に仕上がっています.この点だけをとっても,非常にすぐれた入門書です (逆に言うと,工学系,人工知能系の読者からはインフォーマルすぎると陰口を叩かれる可能性もありそうですが,それはおそらく覚悟の上なんでしょう).第二部ではオントロジーの根本問題を扱っていて,示唆に富んでいます.すべての議論に結論が出ているわけではないですが,内容は啓蒙的であり,なおかつ,率直なので,読みごたえがあります.
    そういうわけで,人文系の研究者へのオススメ度は非常に高いです.私もこの本から多くのこと(意味役割の概念は類似の概念がすでに存在することなど)を学びましたし,私は著者の難しいことを,ざっくばらんに,気取らず語る感じに好感をもちました.
    特に重要だと思われるのは,著者が強調する,オントロジーを「概念化の明示的規定」 (explicit specification of conceptualization) (の体系) と見なす記述的態度の重要性です.「机上の空論」(だけ)では.システムは動きません.この点から見ると,今の認知言語学の「説明」が「明示的な規定のない概念化」 (conceptualization without explicit specification) (の体系) に依存していることがよくわかります.従って,この本の記述は,あなたが明示性を毛嫌いしなければ,今の認知言語学に根本的に欠落している部分を補ってくれるでしょう.

  34. 竹内 薫: 『「ファインマン物理学」を読む: 量子力学と相対性理論を中心として』(講談社).
    科学関係の本ばかりでゴメンナサイ(笑)だって,面白いんですもの(笑)
    この本はスゴイ,スゴイですよ.感動モノです.私は物理はあんまり得意じゃないですが,それでもこの本の内容には感動しました.第一章の初めにある「個人的な想い出」の内容なんか,すごくイイですねー.ただし,最初に断っておきますが,それなりに数学的に---と言うか抽象的に---考える力がないと,この「わかりやすさ」を実感することは難しいと思います.だから,これは決して,読んですぐわかる「簡単な本」には属しません.
    しかし,竹内さんの換骨奪胎もスゴイんでしょうが,この本がスゴイのは,何といってもやはりファインマン自身がスゴイからです (あたり前か(笑)).私は(まだ)「ファインマン物理学」の本物は (あの分量におののいて) 読んだことがないですが,次のような引用 (邦訳5巻, 1-1, p.2) を読むと,彼の「潔さ」に感動してしまいます.

      この章では,[量子]の不可思議な性質の基本的な要素を,そのもっとも奇妙な点を捉えて,真っ正面から直接,攻めることにする.古典的な方法[つまり,ニュートン力学と電磁気学]で説明することの不可能な,絶対に不可能な現象を選んで,それを調べようというのである.そうすることにより,ズバリ量子力学の核心にふれようというわけである.実際,それはミステリー以外の何ものでもない.その考え方がうまくいく“理由”を説明することにより,そのミステリーをなくしてしまうことはできない.ただ,その考え方がどのようにうまくゆくかを述べるだけである.

    これは「(言語の)進化」は(解決可能な問題ではなく,単なる)ミステリーだ」とか嘯いて扱わないことにしていた,どっかの偉い方とは大違いです(笑)これって,要するに無闇に説明のためのパラメターを増やしたくないための言い訳ですよね? 単純明快に,そう言えばいいのに(笑)「無用な説明パラメターを増やすべきではない」という点は筋が通ってはいますけど,問題は「そうするのがあたかも必然的で,そうしないのは愚か者がすることである」かのような,もっともらしい「理由」を取ってつけることです.私はこれが気に入りません.控え目に言っても,尊大です.
    ファインマンがスゴイのは,彼が決して,この種の「知ったかぶり」をしないという点です.彼は,わからないことは唖然とするほど素直にわからないと言います.それは誰にでもできることではありません.特に「名をなした」人には,なおさら難しいことです.ですが,ファインマンはその難しいことを,まるで「あたり前のこと」のように実践してくれるのです.私は今までにも何度か,それに勇気づけられました.
    ファインマンにそれができたのは,おそらく彼が科学者として本当に偉大な考え---特に「科学者には何が可能で何が可能でないか」という点に関して偉大な考え---をもっていて,それを惜しみなく人に伝える人だったからだと思います (人間的には,CalTech 時代に教え子の奥さんと不倫ばっかりしていたりして,少なからず問題もあったようですが(笑))
    続編で,
    竹内 薫: 『「ファインマン物理学」を読む: 電磁気学を中心として』(講談社)
    というのも出てますね.こっちは(もう手元にはあるけど)まだ読んでませんが,こっちの本は,アマゾンのある評で「やっぱり難しい」と評価されているけど,本質的に難しいものは,どんなにわかりやすく説明しても,やっぱり難しいんではないでしょうか?(笑)

  35. S. Kosslyn: “Elements of Graph Design” (W.H. Freeman and Co.).
    この本の著者は,Phylyshyn らとの「イメージ論争」で有名ですが,この本はちょっと毛色が違います.彼のホームページにはこんなことが書かれています:

      Sometimes I get sick of theory. It's sometimes hard to know whether the stories we spin should be taken seriously. One way to do a reality check is to see whether a theory leads to specific applications. The fact that science leads to technology is one of its major strengths, and if a theory is correct, I believe that something applied should follow from it.

    この “get sick of theory” の感覚は,私も非常によくわかります.何しろそれが意味タグつきコーパスを開発しようと心に決めた動機の一つですから.
    それはともかく,この本はわかりやすい図表の描き方の指南書です.心理学の知見を取り入れて,DOs and DON'Ts の対比例を非常にたくさん挙げながら,いかにパッとわかる図表を描くかを解説しています.PowerPoint を使ったプレゼンに応用できるばかりでなく,認知言語学の図示法にも応用できるはずです.特に Langackerian の方々,この本を読んで「お絵書き」の腕を上げるための修業を積んでみたらいかがでしょうか?(笑)

  36. 畑村洋太郎. 『直観でわかる数学』 (岩波書店)
    なかなか傑作な数学の本です.高校数学(あるいはそれ以前)に「つまずいて」しまった人,それほどでもなくても「なんだか数学がわかった気がしない」人のために,多くの人が足を挫く高校数学の「難所」をイメージで解説し,直観的に理解し,モヤモヤ,鬱憤を晴らし,スカッとしてもらうための本だそうです.著者曰く,

      この本は普通の数学の本とはまったく趣が異なる.扱っているのは高校数学である.しかし,教科書ではない.この本を読んでも数学の問題が解けるようにはならないだろう.だから,大学入試用の参考書になるとも思えない.ただし,数学の本質がズバリわかることは保証する.[大文字の強調は原文のママ]


    だそうです(笑).確かに,すぐれた内容です.数学が嫌いで文系に逃げ,そのまま言語学に流れ着いた読者にもオススメできるほど平易な内容です.
    内容はともあれ,私が感心するのは,著者が「ヒトのわかり方」を深く洞察し,次の点を強調するところです:

      では,「わかる」とはどういうことか? それは,外界の物事が,頭の中の「テンプレート(型紙)」と合致する,ということである. ... すなわち,「わかる」とは直観そのものである.
       直観的な理解を非科学的なことと思っている頭のカタい人がいる.そういう人は,「わかる」とはどういうことか真剣に受け止めていない人である.私は,物事の理解には脳科学的手法を取り入れなければならないと考えている.それには,頭の中にあるイメージを表出することが大事である.(「長めのまえがき」, p. viii)
       [大文字の強調は原文のママ]

    この著者の言う「テンプレート」を「スキーマ」あるいは「イメージスキーマ」に置き換えたら,言っていることは認知言語学に通じますね.ただし,中身を読んで頂ければわかると思いますが,数学の基礎を理解するためのテンプレートはそれなりに複雑です.数学者はある意味では非常に「不自然」な見方をするが,その見方に慣れると,もう止められない,というのがこの著者の説くところの一つです.これは,Lakoff と Nunez が “Where Mathematics Comes from” で示した数学への切り口とは---無関係ではないですが---同じではないように思います.もちろん,扱っている数学のレベルのチガイもありますが.
    もう一つ忘れてはならないのは,著者はイメージによる直観的理解を数学の「入り口」だと見なしている点です.イメージ的理解は説明の終わりではなく,始まりです.認知言語学の場合,(イメージ)スキーマを採り出した段階で説明が終ってしまっています.スキーマが使用を通じて,「どう肉づけされるか」は,自明のこととして扱われてしまっています.これは大きなチガイですよね(笑)
    この本の著者,「意志の人」らしく,前書きでつぎのようなことを言っています:

      私は2001年の3月に東大を定年退官した.その最終講義で「蝉になりたい」という話をした.私は,三十数年間,大学という「土」の中でじっと工学と教育と研究に携わってきた.それはそれで充実した人生だった.しかし,定年になってからは地上にはい出て,人がうるさがるくらいミンミンミンミンと鳴いてやろうと思っていた.自分がずっと考えてきたことを世の中に披露してみたかったのである.(「長めのまえがき」, p. ix)

    こういう先生方々ばかりなら,東大もイイ大学なんでしょうがね(笑)

  37. ジェフリー・F.ミラー『恋人選びの心: 性淘汰と人間性の進化 (I)』『恋人選びの心: 性淘汰と人間性の進化 (II)』(長谷川真理子(訳),岩波書店)
    またもや生物学関係の本です.ごめんなさい(笑)でも,ちゃんと言語に関係があります.
    この本の主題は,ヒトの心の進化です.著者は,S. Pinker の How the Mind Works (邦訳: 『心の仕組み』)に代表されるヒトの心や言語に関する適応説 (ヒトの心や言語の存在を,自然淘汰 (natural selection) を生き残るための適応的価値によって説明する) の対案として,性淘汰 (sexual selection) による心や言語の進化の可能性を論じています.彼はハッキリと Pinker の説明を批判し,自然淘汰に基づく説明が (妥当でないとは言わないまでも) 必然的でない理由を,端的に次のように述べています:

      人々はこれまで,人間の心を,生存のための実用的な問題解決装置と見なしてきたので,人間の創造性,道徳観,言語の進化に関する研究は妨げられてきた.[p. 8]

      事実上,二〇世紀のすべての科学は,人間の心の進化を自然淘汰だけで説明しようと してきたからである.[p. 21]

    これに代わって彼が説くのは,

      私たちの心は,生存のための装置としてではなく,求愛のための装置として進化したという説を提出しようと思う.[p. 4]

      本書で私は,人間は全知全能の神によって作られたのではないが,無目的で愚鈍な自然淘汰によって作られたものでもないと論じるつもりだ.[p. 14]

      進化心理学は一般的に,性的な好みを,進化の原動力というよりは産物と見なしている.[...]進化心理学は,もっとその禁欲主義を捨てて,快楽主義に傾くべきである.[p. 9]

    ただし,これは「心や言語の起源が何であるか」という問題を解決するのに有効な仮説であって,現在,心や言語が(偶発的に)有している適応的な価値を否定するものではないでしょう.この意味では,Pinker のような研究者が強調する心や言語の実用的な価値も否認されてはいけないでしょう.これは鳥の羽,昆虫の翅の起源と機能転移による機能分化の問題と同型の問題です.ミラーは次のように言います:

      人間の心にはおそらく何千という心的適応があるに違いない.その大部分は,ほかの種も共通にもっている [...] スティーブン・ピンカーは,彼の著書『心はどのように働くか』(これは How the Mind Works のことで,邦訳は『心の仕組み』)において,これらのメカニズムの多くについて検討している.私が「人間の心は性淘汰によって進化した」と短いスローガンで提案しても,私たちが他の霊長類と共有している,これらの適応のすべてが性淘汰で進化したと言っているのではない.もちろん,私たちの心理的適応の九〇パーセントは,生存し,集団内で生活してゆくときに日々出くわす問題を解決するべく,普通の自然淘汰と社会淘汰によって進化したものである.進化心理学は,これらの適応を非常にうまく分析してきた.
       私が興味をもっているのは,人間に特有の心的適応であり,他の類人猿とは共有していない一〇パーセントほどにあたる能力である.ここおいて,創造的な知性や複雑な言語など,個体差が大きく,ばかばかしいほどに遺伝率が高く,時間とエネルギーと努力のまったくの無駄遣いであるような,不思議な能力の数々が見出されるのである.これらの能力が,研究するに足るまともな生物的適応であると認めるためには,進化心理学は,適応とはどんなものであるかについて,視野を広げなければならないだろう.[pp. 187-88]

    文句なしに,非常に知的に満足しました.進化に関して,少なからず考えを改めました.特に,性淘汰が,私の十数年来の疑問への解決になるのを理解して,非常に気分がイイです: 私の疑問というのは,「生物多様性は淘汰圧の低い環境(例えば熱帯雨林)で指数関数的に増大する.それはなぜか?」というものです.選択圧の低い環境での生物の多様性は,必ずしも個体や遺伝子の生存に有利ではないような形質が選択される傾向によって支えられていると考えられるので,これはパラドクスなのです.自然選択は,これに対して表面的な説明しか与えません.問題なのは,一定方向の形質の選択がない限り種分化は生じないはずなのですが,何が特に生存に有利でもないような形質を選択しているのか明らかではないということです.自然淘汰の圧力が低いということは,特定の形質が選ばれる基準がなく,形質選択はランダムになり,平均化される,ということです.形質選択が平均化された状況下では,多様性は増えないはずですから,これはパラドクスです(突然変異は原則として生存,繁殖のどちらに対しても有害なものでしかないので,よい説明項にはなりません).性選択が答えだったんですね.大いに納得です.
    内容もすばらしいが,この著者,何と言っても文章がうまい(おそらく,長谷川さんの訳もよいのだろうが).飽きっぽい私でも,ぜんぜん読み飽きない.文体は簡潔だが,独特の乾いたユーモアがあって,しばしば猛烈におかしい.第二章「ダーウィンの非凡さ」にある次の文章を読んだときには, 思わず吹き出してしまった:

      驚くべきアイデアを提出する多くの数学的天才がそうであるように,フィッシャーも,彼にとっては,ランナウェイ性淘汰が働くことは自明であったため,それが確かに働く という証明を残しておく必要を認めなかった.彼は,それを読者の宿題として残しておいた. しかし,一九三〇年代にもっとも数学的な才能に恵まれていた科学者たちは, 進化生物学よりは量子力学にいってしまい,生物学に来た科学者たちは,フィッシャーの問題に誰も挑戦しなかったのである.[pp. 79-80]

    次の文章には著者の感情を抑えた分だけ強烈な,痛烈な皮肉がある:

      フィッシャーの研究があったのだから,生物学者たちは,一九三〇年代に性淘汰理論を復活させてしかるべきだった.もしそうしていたら,行動科学は大きな恩恵を受けていただろう.人類学者たちは,近親相姦タブーや部族間結婚にばかり目を奪われるかわりに, 未開社会における真の配偶者選択を研究していたに違いない.心理療法家たちは,私たちの 祖先が性的競争に起因する父親殺しと近親相姦の記憶を受け継いでいるという,ラマルク流のフロイト理論を拒否していたかも知れない.心理学者たちは,ネズミの迷路学習に執着した行動主義を克服して,人間の本性を研究するもっと実りの多い方法を発見していたかもしれない.アルフレッド・キンゼイ,ウィリアム・マスターズ,ヴァージニア・ジョンソンなどの性行動研究の開拓者たちは,彼らの質問紙による研究結果を,もっと豊かな進化的視点から解釈していたかもしれない.人間の進化に興味のある考古学者たちは,狩猟と戦争ばかりに夢中にならず,洞窟絵画とヴィーナスの小像にとまどうこともなかったかもしれない.しかし,こんなことはどれも起こらなかった.[p. 82]

    著者は非常にバランスの取れた視点をもっていて,ヒトの進化に関する多くの錯綜した事実を総合している.特に彼は抜群に観察力が優れていると思える.それは彼がさりげなく取り上げるヒトの行動の具体例に遺憾なく発揮されている.たとえば,彼は次のように指摘する:

      人類学者のローラ・ベツィグは,アメリカの歴史を通じて,大統領は もっと政治的地位の低い男性たちよりも一夫多妻的に配偶してきたことを示している. このことは,凡庸な音楽的才能しか持っていない政治家には,あまり慰めにはならないだろう. なぜなら,ボブ・マーレイやミック・ジャガーなどの人気のある男性ミュージシャンたちは, 大統領よりもずっと一夫多妻的だからである.[p. 106]

    こういう記述は考えて出てくるものではない.
     内容としては文句なしにすばらしい本なのですが,一つだけ「玉に瑕」的な,非常に理不尽な点があります(おそらく邦訳特有の問題ですが).この本,I, II 巻に分かれているのですが,I 巻の註が II 巻の終わりにしかないのです!!! なんじゃ,そりゃ?!?!?!です.何のために二巻に分けたんですか???? (私ははじめ,単行本だと思って買いました.このことに購入後に気づき,愕然としました.天下の岩波書店さん,あなたがなぜこういうマヌケなことをする???)

  38. 馬渡峻輔 『動物分類学の論理—多様性を認識する方法』(東京大学出版会)
    正しい分類は,あらゆる科学の基本です.カテゴリー化が,つまり対象認識がめちゃくちゃなら,科学もクソもあったもんではありません.でも,あなたは分類とはどうやってやるものか,知っていますか? 例えば,あらゆる生物種を,その多様性をちゃんと反映するように一貫した,体系的な方法で分類するにはどうしたらいいか,知っていますか? 知らないでしょう? 「何となく」とかいう勘じゃダメなんですよ(笑) それは,途方もない難問なんです(答えは動物図鑑に載っていると思った人は,生物の体系分類というものの関して根本的な誤りをしていますので,気をつけて下さい.生物分類はそれ自体,まだ完全には確立していない科学なのです).この本は,生物の体系分類を実現するという超難問への現在のところ最良の答えを素描してくれます.分岐分類 (cladistics) という最新の,非常に優れた分類手法について一般人にも解りやすく,本質的な説明をしてくれています.ただ,分岐分類に対して著者は相当にアンビバレントな感情をもっているらしく,手放しでは称賛していません(笑)
    あなたが言語事実を上手く記述したいと思っているなら,この本が提供している知識は,きっと役に立つでしょう.実際,分類は重要なんです---事実をヨク見ない理論家が何を言おうと
    ただ,分類の重要性は,どうも多くの人々に誤解されているようです.従来の日本の言語学 ---特に国語学--- を分類に終止した,前科学的営みと見なす蔑視が世にはびっていますが,これは本当は正しくありません.従来の日本の言語学 ---特に国語学--- の埒が明かなかったのは,それが分類に明け暮れていたからではなく,分類の「技法」を知らないで,非体系的な分類に明け暮れていたからです.「何となく」とかいう勘じゃダメだという自覚をもち,正しい分類法が必要だという意識をもって,それを探し求めていたら,おそらくもっと実りがあったでしょう(近代分類学の始祖 Linne 卿とかは,基本的に「勘」だけで,今日の目から見ても途轍もなく正確な生物分類をなしとげていましたが,彼は分類の際に一貫した基準を複合的に利用することの重要性を意識し,実践した最初の人だったようです.それから記憶力がむちゃくちゃに良かったということです.おそらく南方熊楠並みだったんでしょう).最近は,そういう点ではずいぶん事態は好転しているように思います.この本の影響もあるのかな?(笑)
    この本を読んだのは,もう10年ぐらい前のことでしょうか? 出たばかりのを買って読み,非常に感銘を受けました.今でも出ているんですね.良い本が残っているのを知って,何だか嬉しい気がしました(笑)

  39. R.M.ネシー・G.C.ウィリアムズ.『病気はなぜあるのか: 進化医学による新しい理解』(新曜社).
    面白い本です.内心で「へえー」連発です(笑).ただし私は「個体は,遺伝子を複製するために遺伝子によって作られた乗り物と見なしてよい」 (p. 21) という表現に典型的に表れている R.Dawkins によって世に広められた “GENE AS A PARASITE” メタファーが好きではない.これでは遺伝子は,まるで悪性ウイルスか,昔の SF 映画にあった body snatcher か何かみたいだ.「個体は遺伝子の乗り物」はあくまでも(あまりデキのよくない)メタファーだということを理解するのは重要である (専門の生物学者にすら---いや,専門家だからこそ?---これがメタファーだということを理解していない連中がいる).これは生物学的に見ても,(i) 体細胞遺伝の問題,つまり遺伝子の解釈系の問題を完全に無視しているし(この問題は軽微ではない.ショウジョウバエとヒトの遺伝子は数十パーセントが同一であるにも係わらず,まったく別の発生を遂げるという事実を説明しようと思ったら!),(ii) 寄生と共生の微妙な関係に関する問題を完全に度外視して,切り捨てている.つまり,このメタファーはヒトのカラダを一つの生態系と見なすような<複雑系の思考>に完全に反している.この辺の変な「思想」に被れない限りでは,この本は全体的に有益な視点を提供してくれそう.

  40. S.J.グールド.『ワンダフル・ライフ』.
    バージェス頁岩動物群の発見史です.これまた楽しい(ただ,その後の研究により,バージェス頁岩動物群の分類上の扱いは,当時グールドが考えてたよりも「穏健」な解釈に落ち着いているみたいです).文庫版になって,入手しやすくなりました.原題の Wonderful Life は「驚くべき生命(体)」と「すばらしい人生」をかけています.センスのよい題です.著者は数年前にガンで亡くなっています.惜しい人を亡くしました.
    同じ著者の他の本,例えば『パンダの親指:進化論再考(上)』『パンダの親指:進化論再考(下)』『がんばれカミナリ竜(上)』『がんばれカミナリ竜(下)』など,どれもオススメです.他にも著書多数ですんで,全部は列挙しません.

  41. 藤原博文.『(コ)業界のオキテ』 (技術評論社, 1999).
    本を購入したわけではなく(実際,現在は絶版で入手不能)オンラインで読んだのですが,面白いです.ヒトの愚かさは,どの世界でも同じです.プログラムを自分の論文(あるいは研究)に置換して見て下さい.そして,この著者が指摘している数々の問題(「プログラムを量=行数で計る」とか)が自分の論文(あるいは研究)に該当しないか,確かめて見て下さい.

  42. 伊藤嘉昭.『楽しき挑戦: 型破り生態学50年』(海游社.2003)
    面白い本です.どんな内容なのか,ちょっと引用したらすぐにわかるでしょう(笑):

      特権階級の頂点の一つの外務官僚のひどさが数年前報じられた.そのなかでも捕まったノン・キャリアよりずっと悪いのはキャリアたちだと思う.上級公務員試験合格者から上級官僚を選抜する方式が定着して,最近は東大以外を出た「キャリア」もいるようになったが,現在も新聞の人事記事で見ると官庁の局長以上の九十%くらい,当時は九十五%が東大で,それも法学部・経済学部出だった.どんなに東大出がいばっているか,そしてどんなに悪いことができるかを,私は二十二年間の農林省時代につぶさに見てきた.東大出でも農学部出身はそんなに偉くなれない.しかし研究機関の長の大部分を占めていて,研究をゆがめてきたのはこの連中だった.東大を出ながらその立場を事実上捨てた人たちにはすごく出来る人がいて,よい友人もいるが,東大の悪口をいうことは私の生きる目的とさえなっている.

    この人は私の同類だと思います(笑)

  43. E.S.リード.『魂から心へ: 心理学の誕生』(村田純一・鈴木孝之・染谷昌義 訳.青土社).
    これは E.S. Reed.From Soul to Mind: The Emergence of Psychology, from Erasmus Darwin to William James (Yale University Press. 1997) の邦訳です.心理学が心の科学として成立する背景を綿密な資料考証によって論じた書物.信じられない量の資料調査をしている.M.Foucault の仕事,例えば『臨床医学の誕生』や『言葉と物』を思わせる.

  44. E.S.リード.『アフォーダンスの心理学: 生態心理学への道』(細谷直哉・佐々木正人 訳.新曜社)
    これは E.S. Reed.Encountering the World: Towards an Ecological Psychology (Oxford University Press. 1996)の邦訳です.J.J. Gibson の生態心理学(Ecological Psychology)を独自に拡張し,全体としてみると,かなり異端的な内容の心理学を展開し,正統派の認知心理学,認知科学の問題点の落とし穴を指摘しながら,それを乗り越える方法を模索している.多くの読者にとって最初の数章にはかなり違和感が感じられると思うけれど,後半の<第7章:価値と意味を求める努力>; <第8章:ヒトの環境>; <第9章:人間になる>; <第10章:心の日常生活>; <第11章:言語環境に入る>; <第12章:思考の流れ>はものすごく新しい視点を提供している.(未見だけれど,M. Tomasello の著作とも共通した視点かも知れない.)

  45. R.P.ファインマン (Richard P. Feynman): 『ご冗談でしょう,ファインマンさん(上)』と『ご冗談でしょう,ファインマンさん(下)』.
    R.P. Feynman の自伝.内容は「事実に基づく作り話」だという噂があるけれど,それでも猛烈にオカシイ.私にとってこの本は「自分が仮にそんなに頭がよくなくても,そんなことは気にしなくてイイ」と悟るために役に立ったという意味で,忘れられない本です.

  46. J.ワトソン and A.ペリー (James Watson & A Perry): 『DNA』(講談社).
    先だって亡くなった F.Crick と一緒にDNA構造を発見し,1962年に Nobel 賞を受賞した「正直者」 Jim Watson による,膨大な遺伝子研究の概説.Btトウモロコシ,遺伝子組み換え食品を巡る疑惑を含めて,猛烈に錯綜とした遺伝子工学の全貌を非常に平易な,簡明な文章で説明している.訳もすごくいい.文法遺伝子の背景なども解説されているので,言語学との関係も深いかも.構造主義言語学成立以来の言語学の歩みに関して,Watsonのような「厳正中立」な立場で,その発展と停滞を評価し,記述できる人は,なぜ言語学の分野にはいないんでしょう???

  47. ジェフ・エルマンほか (Jeffrey Elman et al.): 『認知発達と生得性: 心はどこから来るのか』(乾敏郎ほか 訳.共立出版).
    残念なことに,現在品切れ中.これは J. Elman, E. Bates, M. Johnson, A. Karmiloff-Smith, D. Parisi, and K. Plunkett Rethinking Innateness (MIT Press, 1997) の邦訳です.英語は平易です.

  48. ガブリエル・ガルシア=マルケス (Gabriel Garcia-Marquez): 『エランディラ』 (1988, ちくま文庫)
  49. 同 上 : 『族長の秋』 (1994, 集英社)
  50. ホルヘ・ルイス・ボルヘス (Jorge Luis Borges): 『伝奇集』(1993, 岩波文庫).
    珍しく小説を推薦しますが,私はいわゆる「文学」は嫌いです.ほとんど場合,読んでいて時間のムダだと感じます.理由をごく簡単に言うと,ほとんどの小説は,読んでも驚きがないし,世界に関する知識が増えないからです.数学者や理論物理学者が作り出す抽象世界や自然科学者が記述する世界の信じがたい真実の方が,人文系の作家の作り出す見え透いた作り話より,私にはよっぽど面白いです.私は,人間臭いものは原則として嫌いです (例外は手塚治虫の『ブラックジャック (BLACK JACK)』)
    小説の例外はここに挙げた G. Garcia-Marquez と J.L. Borges の作品です.後者は可能世界の行き着くバカバカしさを,変な人情味を交えないで冷徹に語っているのがよく,また前者は,「魔術的リアリズム」と呼ばれる想像力に圧倒され,読んでいて確かに世界の見方が変わりました.特に Garicia-Marquez の作品に関しては,「これが本当に同じ地球に住んでいる人間の書く文章か???」と驚嘆しました.私は想像力がありますので,大抵の作家が作り出す世界は,正直に言って底が見えて,つまらないのですけれど,Garicia-Marquez はちがいました.圧倒されました (彼に限らず,南米の文学には,北半球の人間の想像力を越える不思議があります).
    『エレンディラ』に収録されているのは短編6話と中編1話,すなわち『エレンディラ』です.衝撃的に面白かったのは『大きな翼のある,ひどく年取った男』と『この世でいちばん美しい水死人』です.ただ,私は表題作の中編『エレンディラ』は好きではない.『大きな翼のある,ひどく年取った男』は映画化されたらしいですね.見てみたいのですが,題名がわからない...(私は映画に関しては人並み以下の知識しかないので)
    話は変わりますが,Borges の『伝奇集』に関して,アマゾンの書評の一つに次のようなものがありました:

      G. マルケスは文句なく面白く、ラテンアメリカ文学に目を向けた矢先、これには失望させられました、という個人的な記念碑ともなった作品集。単なる観念論を書き連ねているだけ。何が「バベルの図書館」だ。知識があるのは分かったが、ボルヘスは人生を少しも理解しなかったんだな、という結論に達した。これは小説ではない。豆腐が崩れてしまった哲学書である

    この評者が『伝奇集』に与えた星は当然のように一つです.学部の頃,私はこの手の人種とさんざんつきあいましたが,正直に言って,こういう想像力の足りない連中が嫌いです.それが文学部の大学院に進む気がなかった理由の一つです(まあ,進もうと思っても入れませんでしたけどね(笑))小説は「人生をわかる」とか,そういうもののためにあるのではない.それにこういう連中に限って,人生について本当に深く考え,実践してるわけではない.ついでに突っ込んでおくと,G.マルケスと書いているのは,明らかにガルシア=マルケスの本名を誤解している: Gabriel Garcia-Marquez (本当は Garc i a にアクセントがつく) が正しく,G.マルケスとは略せない.ボルヘスを理解できなかったのは,あなたの知識が足りなかったからでは?

  51. The World's Most Spectacular Reptiles and Amphibians (2002, World Publications):
    この本は,naturalist 以外にはあまりお勧めしません.これは世界各地に生息するハデハデなカメ,トカゲ,ヤモリ,ヘビ,サンショウウオ,カエルの写真集です.と,言うと,「うげぇええ」と反応なさる方が大多数でしょうけど,とにかく彩色がスゴイ.この世のモノとは思えない,絶妙な体色をしている種を集めたものです.世の中に「神秘」というのが本当にあるとすれば,それは奇蹟とかではくて,こういう想像を絶するもののことを言うのだと思います.つまらない文学を読むための空しい時間とお金があったら,たまにはそれを,こういうものにも費やしてみたらいかがですか?
    上で紹介したS.J.グールドのような人々は,このような自然界に存在する神秘に魅せられている人々です.人文系のブッキッシュな人には,こういう驚異を知らない,あるいは感受性のない人が多いようですが.ヒトが人間に興味をもつのは当然でしょうけど,そればっかりじゃつまらないと,ひねくれ者の私なんかは思います.

  52. 一流シェフが手ほどきする人気のチャイニーズ』(別冊家庭画報)
    一流シェフが手ほどきする人気のイタリアン』(別冊家庭画報)
    人気のイタリアン2:一流シェフが手ほどきするパスタ・ピッツァ』(別冊家庭画報):
    秋です.いよいよ料理のおいしい季節です.何を隠そう,私は料理好きです (と言っても,別に故 Jim McCawley を真似たワケではない(笑)).というわけで,料理を本はこれらに限らず,あれこれもっています.アメリカ留学中にも,何冊か UCSD の本屋で買ったりしました.私がもっている料理の本のなかでも特にデキがよいと思うのは,この三冊でしょうか.何といっても,写真のデキがすばらしい.写真を見ているだけで作りたくなるというのは,重要なことです

  53. 私は何を隠そう,音楽演奏にもウルサイです(笑).LP時代から色々と聞いて参りましたし,分野を問わず,それなりに「名盤」と言われるものも知っています.ですが,私はあまり表立って音楽 CD/LP を人に勧めません.私は文章を解析するのに較べて音楽の演奏内容を分析する能力が劣っているのは自覚してますので... 例外は,この Scott Ross の Domenico Scarlatti 鍵盤曲全集 (ERATO) [CD34枚組] です.これは超弩級の演奏です.これを聞いたら,V. Horowitz の Scarlatti なんてヘロヘロに聞えて,ぜんぜん面白くなくなります(笑)
    ただ残念ながら,日本のアマゾンでは品切れ中.選集でヨイなら,日本版でも入手可能ですが,555 曲を全部聴くのが何といっても重要だと思います.第一,選集は録音状態の良し悪しで選ばれており,演奏の良し悪しでは選ばれていません.
    私が選んだすぐれた演奏 best 64 は K.3, K.12, K.34, K.47, K.53, K.79, K.83, K.97, K.109, K.122, K.123, K.128, K.132, K.142. K.144, K.147, K.162, K.164, K.169, K.171, K.188, K.189, K.201, K.204a, K.209, K.210, K.213, K.217, K.222, K.228, K.236, K.253, K.260, K.261, K.262, K.270, K.289, K.298, K.300, K.316, K.322, K.330, K.331, K.335, K.381, K.391, K.396, K.405, K.413, K.421, K.428, K.436, K.445, K.455, K.475, K.501, K.502, K.503, K.507, K.513, K.525, K.529, K.540 です.なんで64曲かって? あまり深い意味はありませんが,それがちょうど iPod に入れておいて朝晩の通勤時間に聴くと二,三日で一順するぐらいの数だからです.これらは要するに,二三日に一度聴くというのを何ヶ月か続けても飽きないという好きな曲だということです
    もちろん,この中には特に好きなものもあります.K.12 in G minor, K.47* in Bb major, K.83* in A major, K.97 in G minor, K.147 in E minor, K.169 in G major, K.209 in F minor, K.236* in D major, K.260 in G major, K.289 in G major, K.331* in Bb major, K.421 in C major, K.445 in F major, K.455 in G major, K.502 in C major, K.513 in C major, K.525 in F major, K.540 in F major.これら18曲は本当に何度聴いても飽きません.
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